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「自分らしさ」という言葉の解像度

近年、至るメディアで目にする「自分らしさ」という言葉。この言葉が世の中に出るようになったのは、2018年より開始されたパンテーン(P&G Japan)による「さあ、この髪でいこう。#HairWeGo」キャンペーンが皮切りだったように思う。

世界中で、あらゆる業界が「自己解放」や「自己肯定」を軸に据えた活動を展開し、そこに高確率で採用され続ける「自分+○○」というキャッチコピー。一見、消費者の自己肯定感を高める万能薬のように見えて、実は、定義と意味を適切に説明するには難しすぎる言葉だと感じている。

わたしは、「自分らしさ」というトレンドに違和感がある。なぜならば、この言葉の定義は極めて曖昧であり、それが何を指すことで、何が起こることなのかを明確に言語化できないからである。

一方で、美容商材の事業会社でコミュニケーション戦略を立案する仕事をしている以上、このトレンドを避けては通れないのもまた事実だ。ブランドチームとの会議の中で幾度となく「自分らしさ」という言葉を発したが、まるで、意味を知らずに発する異国語の単語のように感じていた。

言葉は生き物である。歴史と文化の変化とともに言葉の持つ意味やニュアンスは変化する。
わたしは、言葉の持つ強さと危うさを知っている。だからこそ、定義を自分事化して言語化できない言葉を扱うことに抵抗があるのだ。

そこで、どうやったらこの”魔法の言葉”を理解できるのか、約一年半に渡って考え続けた。まずは「自分らしさ」という言葉を日本語の意味から分解し、現代の情勢と照らし合わせて浸透した理由を分析し、言葉の解像度を高める試みを行った。

その一連の作業と最終的にたどり着いた考察を、このnoteを書き綴る。

「自分らしさ」という日本語を分解する

「自分」 日本語の意味

[代]
反射代名詞。その人自身。おのれ。「—を省みる」「—の出る幕はない」「君は—でそう言った」
一人称の人代名詞。われ。わたくし。「—がうかがいます」

[補説] 江戸時代、「御自分」の形で二人称の人代名詞としても用いられた。現代では「自分、昼飯すませたか」のように、大阪方言の会話で、自分と同等の者に対する親しみを表す二人称として用いられることがある。

出典『デジタル大辞泉「じ‐ぶん【自分】」』

「らしさ」 日本語の意味

《接尾語「らしい」の語幹に、接尾語「さ」の付いた語》名詞や形容動詞の語幹に付いて、そのものの特徴がよく出ていることを表す。「自分—」「子供—」「確か—」
《単独で用いて》その人や物事の特徴。「—を発揮する」

出典『デジタル大辞泉「らし‐さ」』

「らしい」 日本語の意味

[助動][○|らしく・らしかっ|らしい|らしい|○|○]
動詞・形容詞・助動詞「れる」「られる」「せる」「させる」「ない」「たい」「た」「ぬ(ん)」の終止形、体言、形容動詞の語幹、一部の副詞などに付く。

根拠や理由のある推量を表す。「台風が接近しているらしく、風雨が強まってきた」「又からすがなくので見ると狐がきている。よほどひだるいらしい」〈桑名日記〉
伝聞や推量に基づく婉曲(えんきょく)な断定の意を表す。「冬山というのは非常に危険らしい」「隣の子はよく勉強するらしい」
(多くは体言に付いて)ぴったりした状態、よく似た状態にある意を表す。いかにも…のようである。まさに…と見うけられる。「名探偵らしい見事な推理だ」「どうやら実説らしくもあり、又嘘らしい所もあるてな」〈滑・浮世風呂・四〉

[補説] 近世になって、古語の「らし」と、活用があって形容詞を作る接尾語「らしい」との類推から生まれたといわれる。連用形は、「ございます」「存じます」に続くときに「らしゅう」となる。仮定形として「らしけれ」が考えられるが、代わりに「ようなら」を使うことが多い。なお、近世以降、同源の文語形推量の助動詞としての「らし」も用いられた。「このころとられたらしき中間が封じ文出して」〈浮・好色盛衰記〉また、3は接尾語との区別のつかない場合もある。

出典『デジタル大辞泉「らしさ」』

「自分+らしい」という日本語から考察する「自分らしさ」の定義

日本語を母国語とする人であれば、敢えて学ばずとも自然と身に着けた「自分」そして「らしい」という単語。この単語を分解して分かったことは、即ち「自分らしさ」とは、いかにもその人自身の様子であり、その人自身と呼ぶに相応しい状態のことだと定義できる。

ここで、ひとつ驚いたことがある。「その人と呼ぶに相応しい(=自分らしい)状態」であるか否かを判断するのが、主観的であるのか、客観的であるのかという明確な基準がないということだ。
自己同一性の判断軸が、自分の“外側”にも存在する。世で謡われている「自分らしさ」とは、些か異なるニュアンスを感じる。

「自分らしさ」が魔法の言葉になった理由を推察する

日本のマスメディアで流れる広告を見て分かるとおり、日本では「自分らしさ」を基準に行動できることは”よいこと”だとされる傾向がある。そしてこの流れは単なるメディアトレンドではなく、実際に「自分らしく在ろう」というマインドを持つ人も増えているように感じている。

なぜ、「自分らしいこと」が、必要だと感じるのか。
なぜ、「自分らしさ」が、魔法の言葉になったのか。

結論から述べると、「自分らしさ」がトレンドになった理由とは、環境的・精神的に低下した「安全が担保された安心感」への欲求を満たすために、個として強くなることを選択した結果だと考えている。
つまり、日本人が真に求める「自分らしさ」とは、「安全が約束されることによる安心感」であり、自己肯定とも自己解放ともまた異なる文脈を持つということだ。

この結論に至った仮説を、社会情勢と情報流通の変化、そして日本人の民族的感性とコロナ禍による生活様式の変化という観点から考察する。

仮説1:情報流通の変化による体感治安の悪化による精神的要因

世界価値観調査の統計によると、日本人は世界で6番目に人生への自由度が低いと感じているそうだ。
一方で、「自由」「安全」「平等」の重要度を問う質問においては、「自由」よりも「安全」を求める意見が一番高いということにも着目する必要がある。
さらには、「安全」を求める度合いは調査対象国48か国中11番目に高いスコアとなっており、これらの結果から、日本人とは、多少の不自由と不平等を感じたとしても、まず安全であることが一番大切だと考える民族的気質を持っていると推測される。

では、現代の日本の「安全」に対する価値観はどうなっているのか。
警察庁による令和4年の犯罪情勢データによると、この10年の日本の治安の変化について「悪くなった」「どちらかといえば悪くなった」と感じると回答した15歳以上の回答数は67・1%と、半数以上の日本人が「安全」への懸念を抱いていることが分かった。
警視庁はこの結果を、令和3年7月に起きた安倍晋三元首相銃撃事件が影響し、国民の体感治安が悪化している可能性があると分析している。

しかし、実際に治安が悪化しているかというと、必ずしもそうではない。法務省発表の令和4年度版犯罪白書よると、令和3年の刑法犯の認知件数は56万8,148件(前年比7.5%減)と戦後最少を更新している。
令和4年には 60 万 1,389件と、前年比 5.9%増加で上回ったが、これらの 認知件数の内訳を罪種別で見ると、増加件数が多のは自転車盗、傷害及び暴行となっており、新型コロナウイルスの感染状況による変化が影響したものと考えられている。

日本の治安は悪化しているわけではない。にも拘らず、日本の体感治安は悪化している。その理由は、ITインフラの充足と共に発展したリアルタイム性の高いSNSによる情報流通の変化が影響しているのではないだろうか。

過去、情報の主たる入手元はTVやラジオ、新聞などのマス媒体であった。これらの媒体から情報を得られない層もいたし、望まない情報に触れない方法もあった。
その分岐点となったのが2011年といわれている。2011年から2014年にかけてスマートフォンの普及率が急速に増加した。同時にTwitterやFacebookといったリアルタイム性の高いSNSの充足したことにより、情報流通のスピードが急激に変化したのだ。
今では、その情報が真偽であるかということは別軸として、過激な意見やネガティヴなリアクションも同時多発的に拡散される。スマートフォンさえ持っていれば、社会を脅かすような情報とそれに関する個々人の意見が、半強制的に目に入ってくる。

日本の体感治安が下がった理由は、こういった情報流通の変化が多大に影響しているのではないかと考えている。特にここ数年は、連日報道されるウクライナ戦争やコロナ禍が、さらなる影響を及ぼしているであろうことは容易い想像がつく。

情報流通の変化により、社会全体で体感治安が悪化したと感じる人の割合が増えている。実際の治安は悪化しているわけではないが、日本人は「自由」と「平等」よりも「安全」を求めている。
社会に「安全」を感じられなくなったから、自分自身が「個」として強くなることで「安全」を得られるようになりたいという心理が働いた。そして、この「個としての強さ」にフィットした言葉が「自分らしさ」だった。これが、日本において「自分らしさ」が魔法の言葉となった精神的要因であると考察する。

仮説2:農耕民族としての感性による文化的要因と、コロナ禍による環境的要因

前節で述べた日本人の「安全」への欲求の高さには、日本人の農耕民族的な感性が影響しているのではないかと考えている。

本論に入る前に、「民族」についての定義を明らかにしておきたい。
「人種」は生物学・遺伝学的な特徴で分類されるのに対して、「民族」は言語・文化・慣習などの文化的特徴により分類されるものである。ここで言う「農耕民族」とは、食料調達方法によって分類された民族であり、生物学的・遺伝学な定義ではない。

農耕民族は、大人数で集団農耕生活をするために同じ土地に根付き、規則性と計画性を持った画一的な生活をしていたといわれている。集団に属することで、「個」としても食糧的安全を得てきた民族である。
日本人は農耕民族であったと言われている。農耕民族的感性を持ち、調和を尊び、集団生活での規律を重んじる傾向が高いとされる。

一方、狩猟民族は、少数の部族単位で狩猟採取を行う生活様式のため特定の土地には根付かず、個人の技量や知識が食糧確保に反映される民族である。これらのことから狩猟民族は個人主義と言われており、個人主義を掲げる欧米などの諸外国は、狩猟民族的感性を持っていると言われることが多い。

農耕民族的感性と狩猟民族的感性に優劣はないが、世界のトレンドは「個」の尊重を掲げている。そして、それは”よいこと”であり、個の個性を損ねる集団主義は悪であり、集団意識は今や時代遅れだという風潮が、各種メディアから生み出されつつある。

弥生時代から集団主義の下に文化を築いてきた日本社会において、集団から完全に孤立する機会はほぼないに等しかった。
よって、「個」の尊重という風潮は、あくまでも概念的なマインドセットに過ぎず、実際の行動として実行する機会がない人が大半だった。

それが一変したのがコロナ禍だ。新型コロナウイルス感染拡大によるロックダウンと隔離生活により、それまでの集団は強制的に一時解散させられた。一時的だったとはいえ、集団行動をしてはいけないという風潮になり、集団を形成することは悪とされ、「個」として選択、判断、行動することを必要とされた。

元来、集団に属することで「個」としての安全を得てきた農耕民族的感性を持つ日本人が、突然、その「安全」を失ったのである。集団に属することで担保されていた「安全」の喪失を経て、自力で安全を確保しなければいけない状態になった。つまり、精神的要因だけではなく、「個」として強くなることを選択せざるを得ない状況に陥った。

「個」として、強力な個体に転換が必要とされた時、そのマインドセットとして「自分らしさ」という言葉がはまった。これが、日本において「自分らしさ」という言葉が魔法の言葉になった、文化的・環境的要因ではないかと考察する。

日本人が求める「自分らしさ」とは何か

「自分らしさ」がトレンドになった理由は、環境的・精神的に低下した「安全が担保された安心感」への欲求を満たすために、個として強くなることを選択した結果である。日本人が真に求める「自分らしさ」とは、「安全が約束されることによる安心感」である。
ここまでの考察を経て、わたしがこの言葉に抱いていた違和感の正体とは、キャッチコピーとして謡われる「自分らしさ」という文脈と、日本でこの言葉が浸透した経緯とのズレであるとこに気付いた。

「個性を尊重しよう」「自己解放しよう」「自己肯定しよう」という意味を持ったメッセージとして展開される「自分らしさ」というキャッチコピー。日本語としての定義は「いかにもその人自身の様子であり、その人自身と呼ぶに相応しい状態のこと」であり、「自分らしい状態」を判断するのは主観とも客観とも明確化されていない。

正直、「社会に個性が尊重されていない」と感じる機会はないに等しい人生を歩んできた。それはわたしが「日本人」であり、「障碍のない健常者」であり、「性的多数者」であるからだと自覚しているし、さらに言えば「中流階級の家庭」であり、「大卒者」であり、「正社員」であることからだとも自覚している。わたしの「個」は、この日本社会という集団において、極めて健全に管理と保護をされてきた。だからこそ、この「自分らしさ」という言葉が魔法の言葉として扱われることに疑問があった。

これが、被差別対象者の権利のために展開されるものならば、納得感はあるだろう。なぜならば彼らは、集団主義のために「個」としての自己同一性に反する行動を強いられていて、まさに「自分らしさ」に反する状態で生活せざるを得ない対象だからである。だから、より差別問題が深刻な海外でこのトレンドが生まれ、全世界的に波及したわけである。

しかし、現在の日本における「自分らしさ」とは、「集団に属することで個性を損ねてきたすべての人々の自己解放を」というメッセージ性が強く、被差別者かそうでないかを問わずトレンドになっている。これが、一番の違和感のポイントであった。

よって、視点を変えて見えてきた「自分らしさトレンド」が、「集団意識による個性の排除」ではなく、環境的・精神的に低下した「安全が担保された安心感」への欲求が起因であるという結論には合点がいく。
要するに、わたしたちは安心したいのだ。そして、日本人にとっての”安心”とは「安全」である。「自由」でも「平等」でもなく、「安全」なのだ。

時代が移り変わり、社会が変わるなかで、「自分らしさ」ということ言葉の持つ意味もきっと変わる。
言葉は生き物である。「自分らしさ」という言葉の強さと脆さ、そして凶暴性が、手に余る時代にならないことを願う。

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