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福利厚生の充実は働き方改革からの逆行である

 こんばんは、電車通勤になって1ヶ月、車内やホームで人物観察が楽しいいづつです。面白みのない日記だけ書いていてもだれてくるので、時々特集っぽいことを書かないと。

 人材を取り合う慢性的な労働力不足なニュースが連日のように目に入るこの頃ですね。どうやら日本に限らないようですが、従業員満足度を高めるために多くの企業が福利厚生の充実を目指しています。しかしこれ、まだまだ前時代的な発想だなと思ってしまいます。問題を2つ提起します。

■福利厚生が充実するほど不公平な待遇になる

 まず1つ目。

 会社の福利厚生というのはどれをとっても適用条件が存在し、恩恵を受けられる人と受けられない人が出てくるし、受けられても程度が違うということが起きます。

 例えば住宅手当は賃貸住まいか、支払いが終わっていない家に限られます。社内保育所設置は、子供がいる家庭でないと恩恵がないですね。ガソリン支給なんてのもあるらしいですが、当然自動車通勤の人でないと使えませんし、燃費の悪い古い車ほど得してしまいます。そこに独身で自転車通勤で実家住まいの従業員がそこにいたらどう思うでしょう。他の人よりひとまわり大きい成果をあげなければ同レベルの待遇を受けられないって、おかしくありませんか。

 このように、福利厚生は恩恵にあずかれる従業員とそうでない従業員が必ずできてしまいます。しかも基本的に働きぶりとは無関係です。通勤手段も子供も住宅も個人の自由なのに、それによって「労働力の対価」が変わるなんて全然フェアじゃない。しかも福利厚生を受けられた従業員は「やった、得した!」という喜びこそあれ、仕事の成果と連動せずに得たものなので「もっと頑張ろう!」とはなりません。経営は従業員を労働力として見なければいけないのに、この活動は労働力の向上にほとんど寄与しないのです。どうせコストをかけるならば、引き止め料なんかではなく仕事に対するインセンティブを持たせるものにしなくては。

■福利厚生を増やせばルールが増え、ルールが増えれば会社全体が疲れていく

 次に福利厚生の2つの問題について。こっちのほうが深刻です。

 ガバナンスの教科書的な考え方に当てはめると、こういう福利厚生というのは「原則ルールにないことはやってはいけない」という性悪説を前提に「ただし、これはやってよい」という例外事項を増やすスタイルと同じ性質で運用されます。「原則、給料テーブルはこれです。ただし、扶養家族がいる人は例外的に増額します」ですよね。原則、社員は9時から8時間出社して勤務するというのが前提にあって、そこに例外事項としてフレックスだの時短だの半日休暇だのという例外事項がついてくるのと同じです。

 例外事項ルールを増やせば増やすほど管理・運営コストは高くなり、人事総務の負荷が増え、そういった管理部門の人員が増強される。それは理想的な営利企業の姿なのでしょうか。管理から委任という性善説スタイルへの移行が可能な業務タイプの従業員についてはそれが求められる働き方改革からは完全に逆行です。働き方改革に取り組んでいるはずなのに管理部門の負荷が増えるだけなのだとしたら、それは負荷がかかる箇所を社内で移動させているだけで、全社トータルで負荷は軽減されていないどころか増えていて、疲れていくのです。

■これって働き方改革できない会社の考え方ですよ

 働き方改革とは、性悪説からの脱脚です。「従業員は放っておくと悪さをする」と考えて「ルールにないことはやってはいけない」をベースにすると、自由度を上げるためにはルールが増えます。それは結果的にトータルで見て効率化になっているのかよく考えましょう。性悪説がふさわしいルーチンワーカーと、性善説がふさわしいブレインワーカーを見極めて、複数のマネジメントスタイルを使い分けてください。

 というか、悪さをする奴というのは、どうせどんな運用環境下でもやらかすものです。司祭の教えに反する盗人はいるし、軍規を守らない隊員だっているし、顧客情報をリークする会社員だっています。そういうのをゼロにはできないので、適当なところで妥協しないとコストばかり積み上がって、いずれ集合がどこを目指しているのかわからなくなります。

■福利厚生なんかやめよう

 話を戻して終わりにしますと、要は「福利厚生なんかいいから、成果インセンティブに割り当てろ」ということです。性悪説前提で導入を増やしても、疲れるだけですよ。


Yoshiyuki Izutsu



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