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吸血師Dr.千水の憂鬱㉔遭難事件発生!

前回の話

第二章 人の命の為に自分の命をかける男たち

 第24話  遭難事件発生!
 
夏山訓練から約二か月経った秋口の頃、竹内は峰堂派出所で警備に当たっていた。

その日は朝焼けが本当に美しかった。

 山では朝焼けが美しい日は天気が崩れるといわれている。
午前9時を回る頃には案の定雨が降り始めた。山の転機は変わりやすい。この晩夏と秋口のちょうど境目ほどの時期は依然として夏登山のハイシーズンで、その日は竹内の他にも6人隊員が派出所に待機しており、中には珍しく同期の赤木もいた。トレーニングやロープワークの時間を競ったりして過ごしていると、午後一時を過ぎて、
「男山(おやま)で遭難事故発生!警備員は直ちに出動してください。」
と通報が入った。

 今朝早く峰堂から出発した8人の中高年グループが、途中天候が悪化し、深い霧で視界の悪い中、一人が石に足を取られ転倒。ケガ人を支えながらペースを落とし、通常峰堂から二時間ほどの男山(おやま)に倍以上の四時間半かけて到着。その後雨の中、三名がめまいや痙攣を起こし、回復を待って峰堂へ引き返す予定でいたが、一人の意識が混濁し始めた為、慌てて救助要請を出したらしかった。通報を受けた時点で、外の雨脚は一層激しくなっていた。秋口と言っても、山には夏でも積雪があるくらい気温は低い。この雨に打たれ続ければ、低体温症を発症している可能性が高い。転倒したケガ人がどんな程度かもわからない。そして8人という大人数。

にわかに隊員達の間に緊張が走り、怒涛の勢いで出動準備がなされる。

七名の隊員で3グループに分かれた。

 まず常駐隊員の柳谷小隊長と野村隊員が最悪の状況を予想して緊急キャンプの装備を用意して真っ先に出動。二人はとにかく一刻を争うようにバタバタと駆け足でセンターを後にした。

 残った5人は手分けしてふもとの署や消防署、最寄りの山小屋等、各所と連携を取ると、常駐の宮森、当直の出(で)町(まち)良彦(よしひこ)隊員、竹内の三名が遭難者の背負い運搬の可能性を考慮した必要最低限の軽装備で出動。

 そして、残った大石分隊長と赤木が消防の防災ヘリと連絡を取りながら一旦センターに待機をし、後援体制を整えた上で、情況を見ながらヘリの見込みがつき次第合流という事になった。その時点では悪天候で霧が深く、ヘリを出動させることは出来なかったのだ。

 竹内ら三名は雨の中、軽装備と言えどそれぞれ約10キロのザックを背負い現場に向かっていた。激しく打ちつける雨に視界を奪われ、ずぶ濡れになりながら懸命に向かう。
 宮森、出町のベテラン二人は目と手で会話しながら駆けるような速さでずんずんと登っていく。遭難救助の時は、悪天候で視界や体力を奪われることが多い。自然が猛威を振るう中では声を限りに叫んでも聞こえない事も多い。その為、隊員間では普段から手短な意思疎通が図れるように、手信号のような合図がたくさん決められていた。これなら数メートルくらい離れていても問題なくやりとりができたからだ。後ろからついていく竹内も先輩達の意思を汲み取りながら二人に遅れを取らないよう、必死になってついて行く。

 山岳警備隊は普段からこの山の登山ルートを歩き倒しているスペシャリスト達だ。誰よりも早く移動できるように、この山をほぼ走るように移動する。

 だが、今日のような天候下での移動が一番危ないのだ。

 体表に断続的に打ちつける冷たい雨は容赦なく身体から体温を奪っていく。しかし登山中は強度の活動状態で体内からは熱量が絶えず産出されている。この寒空の中、防寒具の中は蒸し風呂、汗はもともと人体が熱くなり過ぎないよう体温調整の為にある防衛システムだ。ただでさえ汗が蒸発する時に奪う体温は、更に体表に打ちつける冷たい雨の中では、体温はすごい勢いで奪われ続けることになる。しかし登山中は強度の活動状態で体内からは熱量が絶えず産出されている。汗はもともと人体が熱くなり過ぎない為にある防衛システムだ。本来は一服の涼をもたらしてくれる人体のクーラーなのだ。100mlほど汗をかけば体温が一度上がるのを防いでくれる。

 ところが山の気温はとても複雑で、標高が高くなるほどに気温もどんどん下がっていく。100m登ると0.6℃ずつ気温が下がっていくのだ。
つまり山は登れば登るほど寒くなり、更に体表に打ちつける冷たい雨との相乗効果で、体温はすごい勢いで奪われ続けることになる。

 しかし、そもそもの問題は運動に伴って発汗できるほどの正しい防寒着が着用されているかどうかだ。きちんと経験者が事前に指導していなければ、そもそも防寒に失敗して、寒さに震えながら登山をしているというケースも実は少なくない。登山の防寒と街中での防寒では全く別物と考えなくてはならないのだ。

 完全防備のプロの自分達でさえ厄介だと思うこの雨の中、中高年のグループ、しかも8人。ここ近年の登山ブームで、良くも悪くも登山をよりカジュアルに楽しむ人が増えた中、特に事故が多いのが、この「中高年グループ」だった。

このパーティのメンバーがちゃんと保温効果の高い服装と登山装備だといいが・・・。

 ベテラン組はイヤな予感しかしない胸の内の不安をかき消すかのように目だけでうなづき合って気合いを入れると、霞んで見えにくい前方をぐっと見据え、更に歩を早めた。

続く

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