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【日本史#07】奈良時代1 - 大宝律令【歴史】

天皇が変わるということは民にとって重大な事です。我々の時代も総理大臣が変わると政策や税など日常の暮らしに影響しますが、昔はそんな生易しいレベルではないです。

天皇の鶴の一声であっちに都を造ったり、こっちに都を造ったりと人々はかなりの重労働を強いられます。

そんな話が多々ある奈良時代の幕開けです。

大宝律令

これはまだ飛鳥時代の事ですが奈良時代にも影響するので、少し説明します。律令とは法律のことで、この時代から初めて日本で本格的な法ができました。

中でも租庸調(そ・よう・ちょう)は人々に多大な負担がきました。
租:稲の収穫の約3%を納める
庸:労働、できないものは布などを納める
調:地方の産物または布を納める

納税と財産

班田収授法:6歳から口分田を与えられ、それで税を納める
墾田永年私財法:新しく開墾した土地の永久私有を認める
 開墾(かいこん)→野原を切り開いて耕地にすること

都を平城京へ

藤原京を構築して20年も経たずに同じ奈良の地で710年に唐の長安をモデルとして平城京を完成させます。ここから奈良時代に入ります。

大宝律令で役人が大幅に増え、藤原京は狭くなったようです。

この平城京は2,3年の超スピードで創り上げるのですが、民の間では疲労と朝廷に様々なものを納めなければならない不満とで、藁をもすがる様に坊さんから仏教の信仰をする者が増えました。

行基(東大寺の大仏の人)

行基(ぎょうき)のフリー画像が無かったので、代わりに東大寺の画像を載せます。

東大寺(パブリックドメインQ)

行基は民に仏教を勧めメンタルをケアしていました。また、お坊さんは唐と繋がりがあるので、最先端の技術を持っていました。

行基も博識で建築学(?)に長けており、民の為に民と共に橋や道路を率先して造っていたようです。

民は貧しく納税できない人々も多く、道端で野垂れ死ぬ人が絶えませんでした。

東大寺に大仏を造る

民に追い打ちをかけるように九州から天然痘が全国へ広がります。

その時に即位していた聖武天皇と皇后は仏教を信仰しており、神様に助けを求めるかのように各地域に国分寺を造りました。

また、行基を連れて大仏も造ろうとします。745年に行基は仏教界最高位の「大僧正(だいそうじょう)」を朝廷から送られます。

749年に行基は大仏の完成を見届けられずに亡くなります。

そして3年後の752年に金で塗装された東大寺の大仏が完成します。

確認問題

  1. 聖武天皇が定めた日本で初めての本格的な法律は

  2. 藤原京から移った次の都の名前は

  3. 745年に行基は仏教界最高位の何となった?

  4. 班田収授法は何歳から口分田を与えられる?

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