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【日本史#08】奈良時代2 - 鑑真(ガンジン)【歴史】

前回の記事では東大寺の大仏ができたのでした。

聖武天皇は東大寺に校倉造(あぜくらづくり)の大きな正倉院(しょうそういん)を造りました。大規模な高床倉庫の様な感じです。

そこには遣隋使や遣唐使が持ち帰った宝物を保管する建物としました。

天平文化

聖武天皇の頃に最も栄えた文化を天平文化と言います。平城京には一万人の役人が暮らしていました。一説によると大多数は貧しかったそうですが。

平城宮の第一次大極殿(パブリックドメインQ)


中国とヨーロッパを繋ぐシルクロードもこの頃で、奈良時代に書かれた神話や記録をまとめた書物の「古事記」と「日本書紀」があります。

鑑真(ガンジン)

聖武天皇は仏教の力で日本を守ろうとしました。遣唐使を何度も中国へ使わせ、本場の仏教を日本に持ち帰ろうとしました。

当時の遣唐使は船で中国に無事にたどり着く確率は高くはありません。逆に中国から日本へ戻れる確率も同じと言うことです。

正に命がけ(;'∀')

遣唐使達は中国へ着き鑑真を日本へ連れて行こうとしますが、向こうのお寺の方々は猛反対をします。

それを振り切って遣唐使達は必至の頼みで鑑真にお願いをし、彼を連れて日本へ向けて出航します。

何度も命を懸けて海を渡ろうとします。

5回の失敗を経て、6回目で日本に戻ることが出来ました。しかし、その旅の影響で鑑真は目が見えなくなってしまっていました。

鑑真が伝えたこと

鑑真は仏教の発展に貢献しただけでなく、医学や建築の技術も教えました。簡単に6回目の渡航と書いていますが、その間に何年もかかっていたようです。

当時の遣唐使と日本の仏教を発展させたいという鑑真の強い思い、感動しました!

確認問題

  1. 東大寺に遣隋使や遣唐使が持ち帰った宝物を保管する建物の名は

  2. 中国とヨーロッパを繋ぐ道の名前は

  3. 聖武天皇の頃に最も栄えた文化の名前は

  4. 鑑真が伝えたものを2つ


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