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【日本史#06】飛鳥時代3 - 壬申の乱【歴史】

前の記事では中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新で天皇を中心とする政治を始めたのでした。

しばらくして中大兄皇子は天智天皇となります。

この辺の歴史は凄い面白いですよ(*'▽')

天智天皇の次の天皇候補

天智天皇には大友皇子という息子がおり、次の天皇へ引き継ぐ方向で動きますが、面白くないのが天智天皇(中大兄皇子)の弟の大海人皇子です。

家系図的に本来なら次の天皇に即位するのは弟の番のはず。

それを差し置くということは身内でバチバチですよ(;'∀')

天皇候補を排除する為に大海人皇子は命を狙われ、身の危険を察した彼は大勢の部下を連れて都を出ます。

時は経ち天皇が亡くなり、息子の大友皇子が弘文天皇となります。しかし、大海人皇子が脅威でしたから討とうと準備し始めます。

それを聞きつけた大海人皇子はとうとう戦う決心をし、とても大きな内乱となります。

壬申の乱

672年に天皇の座を巡って壬申の乱が勃発。たくさんの兵士が亡くなり、古代日本では史上類を見ない規模の内乱となります。

結果は反乱者側である大海人皇子が劣勢の中、勝利!

弘文天皇の時代はかなり短かったようですね。

壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇となり、政治は息子達に協力してやらせました。

天武天皇の子供たち

天武天皇にはたくさんの子達がいて、中でも大津皇子がとても優秀でした。

誰もが大津皇子が次の天皇だと期待していましたが、当時は多妻で天武天皇の本妻である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は大津皇子のことをよく思っていませんでした。

大津皇子は天武天皇の本妻である皇女の子ではなかったのですね。彼女はたった一人の実の子である草壁皇子に次の天皇をと目論みます。

謀反(むほん):君主にそむいて兵を出す

大津皇子は謀反を企てていると濡れ衣を着せられ殺されてしまいます。大津皇子が死んで得をする人を考えたら、誰が関与していたかは推測はできますね。

競合相手がいなくなり安泰かと思われた草壁皇子でしたが、突然に原因不明で死んでしまいますΣ(・ω・ノ)ノ

もしかしたら大津皇子の件でよく思わなかった人間が関わっているかもしれません。病死なのかこの事は未だに解明されていません。

息子がダメなら孫を天皇に

草壁皇子は子供の軽皇子がいました。そこで鸕野讃良皇女は自分の血筋を引くその子が大きくなるまで皇位を守ろうと、690年に自ら持統天皇として即位します。

軽皇子が成人するまで持統天皇は誰にも皇位を譲りません。天武天皇の計画にあった中国の唐の都城をモデルとして藤原京を造って、日本の首都としました。

そして、成人した軽皇子が697年に文武天皇となり、奈良時代へ遷移します。

女性(パブリックドメインQ)

持統天皇の執念。女性の強さ、凄いですね!


確認問題

  1. 大海人皇子が壬申の乱で戦ったのは誰

  2. 鸕野讃良皇女の一人息子の名前は?

  3. 鸕野讃良皇女は690年に何天皇となった?

  4. 初めて唐の都城をモデルとして造られた都城は

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