「少子化」のデータを見ても「少子化」のことしかわからない。(春木ゼミ・仮想)
0.「少子化」という思考停止
以下の記事などで述べましたが、未来予測をするために、現状を理解するための基礎データを示しました。おそらく少子化と言えば、以下の図を思い出すのではないでしょうか。厚生労働白書(令和2年版)からの引用で、日本の「出生数、合計特殊出生率の推移」を示すグラフです。
その概要は、以下で説明しました。
この出生数の年次統計の出典は、記載されてる通り、厚生労働省の人口動態調査です。以下に、そこから抜粋したExcelファイルを添付しますが、それを筆者がグラフにしたものも示します。
最初に示した厚労省のグラフと比べて、相当印象が異なっているのではないでしょうか。出生数のデータは、1872 (明治4)年から始まっています。その年は、明治政府が中央集権化を図るために、全国に261か所存在していた藩を廃して府県を置いた、廃藩置県が行われています。その結果、全国3府302県がまず置かれ、さらに統廃合を経て同年末までに3府72県となったと言われています。その際に調査が行われ、当時の出生数が593,000人と数えられています。
廃藩置県は、150年以上も前の出来事ですから、さすがにその頃から生きている方はもういないとは思います。しかし、厚労省のグラフは1950(昭和25)年が原点になっていますので、その時に生まれた子供は現在72歳でまだまだ健在なはずです。要するに、厚労省のグラフは大幅にデータをカットしたもので、少なくとも現在生きている人々を全て網羅したものではありません。
実はこうした少子化に纏わるグラフというのは、例えば以下のように、1947(昭和22)年から示されるのが普通です。昭和22年から3年間に生まれた人たちを「真の団塊世代」と呼んでいます。この団塊世代が、基準になって以降の出生数が云々されて来ている、このことは重要な点です。
実は、1944年から1946年までは動態調査に出生数のデータがありません。ですので、その部分は総務省統計局の「日本の長期統計系列」を用いて表します。敗戦の混乱で、正確な出生数が把握できなかったので、年齢から推定した数値データが使われるそうです。その事実からも、あの戦争がいかに無謀なものだったことがわかります。当時の為政者たちがどういう国にしようと考えていたのか、本当に疑問に思います。
2023年に厚生労働省が発表した簡易生命表によれば、男性の平均寿命は 81.05 年、女性の平均寿命は87.09年となっています。つまり、72歳の人たちが生まれた時点を原点にする必然は無いわけです。
まず、注目すべき一つのポイントは、上記した「明治4年からの出生数・出生率」のグラフのように、団塊世代以前の出生数を視覚化してみると、通称「少子化」と呼ばれている現象が、相当違ったモノに見えてきませんか?
データをグラフにする理由は、端的に言えば、現象をイメージで把握することと共に、現象の中にある、異常な点、特異点を発見することにもあります。日本の近現代を単位に出生数を見ていくと、団塊世代こそが、異常な現象なんだということがはっきりわかると思います。ここまで多くの出生数を抱えることは、この国にはかつては無かった。その理由については改めて考察しますが、事実としては「異常」なことが起こったわけです。そこを基準にして考えると、現在は「異常」に見えるでしょう。異常なのは、団塊世代なのです。
現代社会では、インフラや社会サービス、経済システムなど、ほぼ全てが、この団塊世代を基準として、昭和30年代以降の高度成長期に成立、整備されてきたと言って過言ではないでしょう。つまり異常事態を前提とした社会設計なのですが、その維持を図るためには、前提である異常な数の出生数が必要だというロジックになるのは当然の話です。「少子化」という言葉自体にはそういったニュアンスが含まれているのは否定できないでしょう。現代は少子化が起こっているのではなく、戦後数年のいわば「異常多産時代」から本来の姿に戻って来ているにしか過ぎない、端的に言えばそういうことになるでしょう。
ですから、少子化対策が必要だったのではなく、異常多産時代とは異なった、新たな社会設計が必要だったし、これからも必要なのです。もう2度とああいった異常な多産現象は起こらないのは、間違いない話です。それでは社会の維持が出来ないというのは、後述のように当時の為政者達も問題意識として持っていました。だから異常な多産は3年で止んだのです。この点は改めて後述します。
1.戦前の高い出生数
団塊世代以前、特に戦前から出生数を見ていくと、マクロ的にはかなり高いレベルで出生数が伸びてきているのがわかります。特に1923 (大正12)年に200万人を超えて(2,043,297人)から、大正から昭和以降には、人口増大政策が取られていました。この辺りの事情は、先人の深い研究がありますので、一例として以下に引用しておきます。
上記によれば、「結婚年齢を10年間で3年早め、引き下げる。男子25歳、女子21歳に引き下げる」、「平均5児以上をもうける」、「(昭和35年には)1億人人口を確保する」といった政策目標が提示され、具体的には多子家庭に対しては、表彰制度を含んだ優遇策が示され、無子家庭や独身者には課税をするといった政策が取られたそうです。結局のところ、国民は兵力、労働力であって、人口大国になることで、その増強が諮られたというわけです。結果として、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃とともに太平洋戦争が開戦することになるのは言うまでもありません。
これが、「産めよ、殖やせよ」という政策の成れの果てです。政策を立てたら為政者は責任を取るべきだと考えるのは私だけですか。
やはり上記からの引用ですが、
とまで言っています。少子化と言われている現在でもある種の既視感を抱くような意見を聴くことがあるのは、気のせいでしょうか。そもそもなぜ子供が多くなければならないのか、明らかにこの時代とは様々な物事、制度、価値観が異なって来ています。「富国強兵」以外の理由が明確でなければ、少子化を悪と捉えることもできません。
2.人口増強政策と優生思想
2024年7月3日付のニュースで、以下のようなものがありました。
旧優生保護法「違憲」、強制不妊で国に賠償命令…最高裁が「除斥期間」不適用で統一判断
ここで言う旧優生保護法とは、1948(昭和23)年から1996(平成8年)年まで存在した法律で、簡単に言えば以下のような趣旨の法規です。
1948年制定ですから、団塊世代を想定したものです。これによって人工妊娠中絶が合法化されたということになります。団塊の世代は22年から3年間で急激に出生数が減少して行くことに、何か疑問は感じませんでしたか?
例えば以下のグラフは、アメリカにおける出生数と出生率です。世界銀行などからデータは公開されていますので詳細は省略しますが、戦後のベビーブーマー、つまり日本で言う団塊世代は、1960年代まで一貫して高い出生数が継続しています。
つまり団塊世代が3年で急激に低下したのは、その大きな要因として、この優生保護法によるものと考えることが出来るわけです。以下のようなデータがあります。
この急激な出生抑制によって、団塊世代の人口ボリュームが突出したものとなったわけです。上記文献でも指摘されていますが、「優生保護法の成立がなければ、戦後のベビーブームはもっと長く続き、日本の人口構造は今とは全く異なったものになっていた」というのは間違いない話です。
人口の抑制に向かった、この旧優生保護法は、1940(昭和15)年に制定された国民優生法を踏襲したものと言われています。
1938(昭和13)年1月に厚生省が発足します。目的としては、国民の体力向上、結核等伝染病への罹患防止という労働力、兵力である国民の品質維持ですが、さらに傷痍軍人や戦死者の遺族に関する行政機関としての役割も持っていました。まさに出兵から帰還、死亡までを担う、露骨な軍事目的でもあったわけです。設置当初は、1官房5局(体力局、衛生局、予防局、社会局及び労働局)から成っていましたが、特に予防局は優生断種制度の制定に取り組んだとされています。
以下、詳細に関しては筆者が深く理解をしていないため、要点を掻い摘んで引用します。
優生学、優生思想に関しては、以下のように説明されています。
この優生思想的な観点からは、出生数の増大には人工妊娠中絶が必要とされていたということであり、実際に精神疾患やハンセン病患者の断種手術が行われて来ました。
前述のように、昭和22年からの急激な人口増大はかつてないほどの社会的なインパクトを与えつつあったこと、それは当時の時代背景を考えると、実に大きな社会的な危機だったことがわかります。その大きな要因は、戦後の食糧不足です。敗戦により食糧事情が悪化し、さらに労働者が徴兵されて出兵したことにより、農産物自体が不作に陥り、また流通経路が破壊されるなど、国の食糧政策がほぼ崩壊しており、全国民が飢餓状態に陥っていたことが背景にあります。
通称食糧メーデーと呼ばれる、1946(昭和21)年5月19日に皇居前で開かれた飯米獲得人民大会という、日本国政府の食糧配給遅延に抗議する集会に25万人が集結したという事実は広く知られています。
こうした中で、制御不可能なほどの大量の子どもが出生していくということ、つまり当時は「人口増加」に対して危機意識をもって捉えられていたということになります。そこで、戦前の国民優生法を改正して、旧優生保護法が制定されたという事情を認識しておく必要があるでしょう。
この法律の背後にある、優生思想的な価値観が、今回の判決では憲法違反であると認定されたということになります。
旧優生保護法は、中絶を脱犯罪化したという役割はありましたが、結局国民優生法の継承という側面で、優生思想の枠組みの中の規程です。端的に言えば、個人の出産を、戦前は富国強兵、戦後は食糧事情という国益に合致させようとする姿勢は一貫しているという点は注目すべきだと考えています。
個人が出産するか否かを決めるのは、あくまでも個人の意思であるべきです。それを権利として昇華したものを、「リプロダクティブ・ライツ(
reproductive rights)」と呼びます。「リプロダクティブ・ライツ」とは、簡単に言えば、「自分の身体に関することを自分自身で選択し、決められる権利」のことで、当事者である女性自らが自己決定することを表しています。
このリプロダクティブ・ライツが、国際的に明文化されたのは、1994年9月に開催された国連が主催する国際人口開発会議(通称カイロ会議)が最初のことと言われています。
内閣府、内閣府男女共同参画局のWeb中で、この「第4回世界女性会議 行動綱領(総理府仮訳)」が公開されています。以下にリプロダクティブライツに関する部分を引用します。
改めて問いかけます。少子化で何が困るのですか?なぜ少子化を悪しきことと考えるのですか?
改めて指摘しますが、個人の出産を、戦前は富国強兵、戦後は食糧事情という国益に合ったものと考えられてきた、これは否定できません。では今は「少子化」という言葉で何が強いられていますか?
団塊世代という「異常出生数時期」に合わせた社会システムの維持という国益ではありませんか?
3.出生数に関するミクロな諸々
こうした前提で、よりミクロに出生数を見ていくと、いくつかの増減の波があります。またここでデータ化されている出生率は、人口1万人当たりの出生データですので、合計特殊出生率とは若干違う意味合いを持っています。性別や年齢という要素を鑑みていないのと、人口維持という観点が無いのが特徴です。
戦前では1906(明治38)年の急減がまず目につきます。これは、丙午(ひのえうま)の年で、前年の人口1万人あたり311.62人から、296.42人まで5%ほど低下しています。しかし、戦後1966(昭和41)年の丙午では、前年の185.57人から137.42人まで26%も急減しています。迷信、俗信として片付けられている丙午が、明治期にはそれほど多くの減少を来さなかったのは、文明開化のせいでしょうか、興味深いところです。
1919(大正8)年の減少は、1918(大正7)年から 1921(大正10)年にかけて世界的に流行した、スペイン風邪の大流行が原因ではないでしょうか。世界中で当時の人口の4分の1程度に相当する5億人が感染したとされ、死者数は1,700万人から5,000万人と推計されています。
1929(昭和4)年には、アメリカで株価が暴落したことをきっかけに起きた、通称ウォールストリートクラッシュと呼ばれる世界的な不況が起こります。 当時アメリカは世界経済の中心であったため、アメリカと経済的な関係があった世界中の資本主義国にも大きな影響を与え、世界的な不景気となりました。
1939(昭和14)年5月には、満州国とモンゴル人民共和国の国境あるノモンハンで、国境線を巡る紛争が発生し、日本とソ連による大規模な軍事衝突「ノモンハン事件」へと発展して行きます。また9月にはドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発します。この年の出生数の低下は、こうした世界情勢の反映と思われます。
未来に希望がない時代には、誰も子どもを作ろうとはしないでしょう。戦争とか不況とか、感染症とか、そうした不安がある時代には、もう多くの子どもは生まれない。終戦で、いかに多くの人々が未来に希望を持ったのか、あの頃数多く生まれた団塊世代の圧倒的な人口ボリュームを見ると、その時の人々の思いがよくわかります。空から爆弾が当たり前のように降ってくる世界に子供を迎えようなんて、誰も思いませんよ。少子化対策は、平和で人々が幸せに暮らせる国を作ること、為政者に出来ることは、まずそれです。
戦後に関しては、団塊以降の急激な低下は人口抑制政策の賜物ですが、興味深いことに1956(昭和30)年からの高度経済成長期とシンクロするように出生数は増加し、1973(昭和48)年をピークに減少に転じます。この期間が丁度オイルショックによる経済成長の鈍化とほぼ同時なので、経済的な事由を出生数に影響を与える要因と考えることも多々あります。但し、その後のバブル経済、1986(昭和61)年~1991(平成3)年までに、出生数の目立った変動が無いということが説明できなくなってしまいます。
尚、団塊世代の子どもの世代、通称団塊ジュニア世代、1971(昭和46)年~1974(昭和49)年生まれの子どもの世代に人口増加が無いということを少子化の一つの表れとして指摘する意見も多々あります。
しかし団塊ジュニアのジュニアの出生時期を見てみると、1994 (平6)年に、出生数が前年より増えていることがわかります。団塊ジュニアが20代前半ですが、この辺りを団塊ジュニアの次の世代と考えてもいいように思われます。例えば、1973 (昭48)年の1万人当たりの出生率は前年比で1.026ですが、1993 (平5)年では、前年比1.0421で若干増加しています。結局、団塊世代の異常な出生数を、団塊ジュニアは再現できなかったし、ほぼ同じ比率でそのジュニアも出生率、出生数が下がって行った、そういう結論にならざるを得ないと思います。
4.通称「少子化」を理解するための縦と横
たかだか一つのグラフで長い文になってしまいました。一つの現象はその事柄だけを見ていても本質はわかりません。同時代的に起こってることとの相関や因果、そして時間軸に沿って変化して行くこととその背景など、理解すべきことはたくさんあります。今回は出生数を取り上げましたが、他にも、子供と未来を考えるときには、以下のようなデータを理解しておく必要があると考えています。これらを縦(推移)と横(同時代)の2つの観点から分析をしていく予定です。
出生数
合計特殊出生率
総人口
平均寿命
死亡者数
乳児死亡率
婚姻件数推移
今回のお話しは以下で少し述べています。
また関連データに関しては以下で触れました。ご参考まで。
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