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コロナ隠し


「最低、迷惑だよ、死ね」
 この投稿に、リンクされたニュースサイトは、2019年11月、中国で発生し、世界中で流行した、新型コロナウイルスに感染した男が、自宅待機を要請されていたにも関わらず外出し、入った店の従業員に感染させ、店を休業に追い込み、多大な損害を与えた。店側は、男に対して、損害賠償請求を検討している、と報じていた。
 その投稿には、共感のコメントが数十件垂れ下がっていた。
 立花君はしぶしぶ起き上がり、咳で喉を掻いた。経験上、喉の痒みを舌で掻けば、あっという間に悪化する。舌が喉に触れないように、そっと口を閉じた。昨晩から、風邪の症状が出始めた。治ってくれ、と祈りながら、普段より早く床に就いた。床に就くのが早かったせいで、目覚ましよりも1時間早く目覚めてしまった。悪化していた。倦怠感があり、起き上がるのが億劫だった。布団に潜ったまま、スマートフォンでSNSの、ユーザーの投稿を見ていた。そうしている内に、目覚ましをセットした時間を過ぎた。仕事に遅刻してしまう、ああ、起き上がらなければ、と思い、起き上がり、壁に手を突いて息を整える。足に痺れがあり歩けない。どうも、相当悪いようだ、と思った。
 体温は測らない。どうせ熱があるに決まっている。「死にそう」でなければ、バイトを休む気などないのだから、測る必要ない。時間の無駄だ。
 立花君のバイトの同僚の尾崎君は、SNSで、新型コロナウイルス問題のようなトレンドに敏感に反応する。平和安全法制が審議されていた時、元オウム真理教の教祖や幹部の死刑が執行された時、生前退位の意向の報道があった天皇が、ビデオ収録した「おことば」を発表した時、アイドルの握手会で発煙筒が焚かれた時など。
 中国政府による新型コロナウイルス隠蔽疑惑、ダイヤモンド・プリンセス、アジア人差別、トランプ対中国、東京五輪の行方、大規模イベント等の自粛要請、欧米での感染者数増加、現金給付、日本政府の対応の遅さ、連日更新される、新型コロナウイルス関連報道がトレンドに上る度に、武漢、パンデミック、エアロゾル、N95マスク、クラスター、ロックダウン、オーバーシュートなどの「新たに目にした言葉」を混じえながら、尾崎君は持論を展開した。
「自粛の要請が出ているってのに、コンサートを強行しようとしたアーティストがいたけど、どいつもこいつも自分らのことばっかのバカばっかだね。オーバーシュートしたらどうするんだ、医療崩壊するぞ。バカは死ななきゃ治らないのかな、マスクしないで咳している奴とか、本当に有り得ない。周りに気を使えよ。風邪っぽいなら休め! バイト来るな! そういうの利己主義って言うんだよ」
 と、尾崎君はSNSで息巻いている。
 立花君は戦慄していた。尾崎君と立花君のシフトはよく被る。尾崎君の前では、咳1つしてはならない。完璧に、健康の演技をし続けなければならない。そんなこと可能なのか? 不可能な気がするがやらなければならない。
 周りに気を使え? ふざけるな、1人暮らしのフリーターにそんな余裕はありません。いつ終息するかも分からないのに、休めません。自分のことでいっぱいいっぱいです。尾崎だって、僕と同じはずなのに、よく言うよな。イカれてやがる。
 というのが、立花君の考え方でした。
 立花君は、コップに水道の水をたっぷりと淹れて、飲み干した。3回それを繰り返した。身体を蔓延っている悪いものが、全部おしっこになって流れ出ることを期待していた。
 政治家が、テレワークを推奨していたが、朝の電車は相変わらずの満員状態だった。いや、少し空いたのかもしれない。本当に少し。立花君は、いつもみたく胸の前で腕を組み、痴漢冤罪を回避しながら、ここにいる人の内、どのくらいの人がSNSで、発信者になっているのだろう、と思った。もしかしたら全員かもしれない。全員が、日本語に乗せた気持ちを、SNSを介し、世界に向けて発信しているのかもしれない。そう思うと怖かった。立花君が感じ取っている日本語圏のSNSの世界は、1つの巨大な塊のようであったからだ。巨大な塊が、小さな、柔らかな、個の上に落下し、簡単に押し潰す。そんな光景を何度も目にして来た気がしているからだ。立花君は喉が咳を求めているのを感じた。口をしっかりと閉じて、胸に力を入れて、咳を押し殺した。マスクをしているが、しているからといって怖ろしい。
 立花君は、ファミリーレストランの厨房で働いていた。
 更衣室に尾崎君がいた。尾崎君はスマートフォンのニュースアプリで、新型コロナウイルス関連のニュースを見ていた。
「おはよう、コロナウイルス」
「おはようコロナ」
 尾崎君と立花君は、最近定着した挨拶を交わした。尾崎君は、安倍内閣が計画しているという、現金給付について、立花君に話をふった。尾崎君は、10万じゃ足りないと言う。
「確かにね、倍は欲しいよ」
 と立花君は答えた。尾崎君は首肯いた。金銭感覚は、立花君と尾崎君で違わなかった。だから、立花君は不思議に思う。どうして尾崎君は、金のため、新型コロナウイルスに感染しているかもしれない症状を隠して、出勤する謂わば「コロナ隠し」、に目くじらを立てるのか。尾崎君はそういう人をよく、「利己主義」だとSNSで非難していた。
 やはり、このまま平然と働くのは難しい、と厨房に立ち立花君は思った。1日だけ休んで、近所のクリニックで風邪薬を処方してもらって、終日安静にして、完治しないまでも、少しでも軽くしてから出勤、でよかったかもしれない、と後悔した。休む理由は、家族の急病だとか、適当な嘘を付けばいい。1日で約8000円の稼ぎ、それだけのためにこんな無理をしている。されど8000円、惜しい、乗り越えれば、8000円。つまらないが、仕方がない。
 身体を動かすと、その分身体が重くなる。新型コロナウイルスのせいか、普段より忙しくはないが、何も仕事がないというわけではなかった。次々と運ばれて来る皿の汚れをスポンジで拭い、食洗機に打ち込む。熱湯で洗浄された食器の表面に、未だ張り付いている熱で火傷しながら布巾で乾かす。業務用の炊飯器から飯を取り出し、別の容器に移し、米を入れてセットする。タッパーに保存された、それぞれの野菜を小皿に移し、付け合せのお新香を作る。茹で上がったうどんを器にあけ、つゆを注ぐ。
 働けば働くほど、身体が重くなる。熱くなる。トイレの鏡で顔を見ると、真赤に火照っているのが分かった。幸い、ここではみんなマスクをして、三角巾を被るから、自然に火照りを隠すことが出来た。隠しても熱は下がらない。もう、横になりたい。退勤の時間まで残り4時間、4000円。4000円といえば、セールで安くなった、ナイキのパーカー、1着買える金額。よし頑張ろう。
 フライパンで、冷凍されていた鶏肉を解凍していた時、思わず小さな咳をしてしまった。時間が止まったように、静かになった。隣で調理していたおばさんに、「大丈夫?」と尋ねられた。その奥にいる尾崎君は、耳の感覚を拡げて返事を待っている。立花君はあわてて言葉を探した。頭の中の、絡まった回線をまっすぐにするために、あっち切って、こっち切って、あっち繋げて、こっち繋げて……、その間0.1秒。
「ついさっき、事務所に行った時、更衣室入って、持って来た「ハバネロ」ちょっと食べたんですよ。あ、生のじゃなくて、スナックの、あるじゃないですか、黒いパッケージの。あれ辛くて、口の中にまだ残ってて、今更むせちゃって、すいません」
 おばさんは、1秒、間を置いて、
「ああそう、休憩でもないのに、お菓子食べないでね」
 と答えた。
 無理がある。そう厨房にいるみんなが思っている。おばさんが作った1秒の間は、「嘘だよね」というメッセージだ。でもたった1回の小さな咳である。それ以上は何もなく、みんな普通に仕事に戻った。立花君は尾崎君の様子をこっそりと見た。尾崎君も仕事に戻っていた。
 その直後、腫れ上がった喉が、あらん限りの力を尽くして、咳を要求し始めた。立花君は、涙をぼたぼたと零し、咳を堪えた。何でもないように、フライパンを揺すりながら、「この煙、目に滲みますね」という言い訳を、心の内で、何回も繰り返した。
 帰り道、仕事場から離れた暗闇の中で、何回も咳をした。唸る犬のように、絡まった痰を吐き出し、「ああ、ああ、ああ」と咳をした。スーツを着た女性が、逃げるように過ぎて行った。「ああ、ああ」としばらく、アスファルトに向かって、その向こうの土に染み込ませるように、咳をした。
 アパートの部屋に帰って、ぐったりと横になった。冷蔵庫にあったヨーグルトを食べて、水を飲んだ。1時間後、また仕事に発て、と言われたら「無理だ」と答える。ただ、10時間後は、分からない。「無理だ」と言う気もする。シャワーを浴びるために起き上がるのも辛い。しかし、仕事に行くのだとしたら、シャワーぐらい浴びておくべきだ。立花君は、重い身体をなんとか持ち上げて、シャワーを浴びるために浴室へ向かった。
 部屋を暗くして、横になると、立っているために抑えられていた呻きが、身体のあちこちから聞こえた。肺が呻いている。熱くなった身を、横にしたり、縦にしたり、反対にしたり、畳んでみたり、治ろうとして、持ち主を煩わす。炎症が拡がっていた。恐ろしくなって、トレーナーを1枚追加した。毛布を3枚にした。身体の努力に、手を貸さなければと思った。
 そんな日が2日続いた。3日後は休みだった。近所のクリニックに駆け込み、風邪薬を処方してもらい、部屋で寝続けると、喉が少し痛む程度でほぼ、風邪の症状は治まった。4日後は出勤日だった。尾崎君と一緒の日だった。尾崎君は立花君と、いつもの挨拶を交わした後、立花君を戦慄させた。
「おはよう、コロナウイルス」
「おはようコロナ」
 尾崎君は、1秒、間をおいて、
「お前さ、本当のコロナじゃないよな」
 と言った。
「最近おかしかったよ、いつもより動き鈍くて、仕事遅かったし、休憩中はずっと寝てるし、たまに泣いてるし、コロナ隠してないよな」
「まさか、全然健康だったよ、しいて言えば、花粉症かな」
「花粉症? コロナを花粉症だって、思い込んでるだけじゃないの?」
「違うよ、毎年同じ症状だし、ある意味慣れてるし、これは花粉症に違いないよ」
 立花君は、花粉症を経験したことがない。
「そっか、それならいいんだ。でもコロナだったら、ごめんなさいじゃ済まねえぜ、いいか、正直に言えよ」
「分かってるよ」


 尾崎君はSNSに、とある人の訃報の記事を引用した投稿をした。
「この人が死んだのは、外出自粛と言われているのに、外出したり、宴会したり、花見したり、マスクしないで、うろうろしたりしている奴らのせいだ。人殺しだ! 利己主義者だ! 周りの人のことをもっと考えろ!」
 その投稿に反論する投稿がぶら下がった。
「言いたいことは分かるけど、あんまり押し付けるのもよくないんじゃない?」
 尾崎君はその投稿を引用し、その投稿へ反論した。
 尾崎君の賛同者も一斉に、尾崎君の投稿への反論の投稿へ、反論を始めた。反論というか、ほぼ攻撃だった。「馬鹿め」「死ね」「こういう人がいるから」「お前みたいな奴のせいで」「人生やり直せよ」
 ほどなくして、尾崎君の投稿へ、反論の投稿をしたアカウントが消失した。尾崎君と、尾崎君の賛同者たちは勝鬨を上げた。
 それを見ていた立花君は、尾崎君の賛同者たちの攻撃が、自分に向かって来ていたように感じた。匿名でSNSアカウントを作って、尾崎君に反論をした。
「確かに、あなたが言っていることは正しいのかもしれない。あなたと、あなたの仲間たちが攻撃したアカウントは、利己主義を擁護していたのかもしれない。でも、あなたたちのしたことは、敵を見つけて攻撃して、排除することで、自分たちが信じているルールの正しさを確認して、安心したいだけのムラ主義だと思う」
 尾崎君の反論。
「誰だよお前、わけの分からないことを言うな! もしかしてお前、さっきのアカウントの奴だな。悔しくて、別にアカウントを作って、反論しに来ているんだろ、笑えるぜ」
 尾崎君の賛同者たちが追従する。立花君は立ち向かう。
「別にそれでいいよ。僕は、さっきのアカウントの人なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。とにかく僕は、君たちには想像力が欠けていると言いたい、相手の気持ちを想う力が」
 尾崎君の反論。
「想像力が欠けている? それはお前だろ。自己紹介ありがとうな。そういえば、コロナっぽいのに健康なふりをして、バイトに来る奴の話聞いたけど、そいつが利己主義者のいい例だ。想像力がない奴とは、そいつのことを言うんだ。他の従業員に感染したらどうするんだ? 感染した従業員と一緒に住んでいる、おじいちゃんおばあちゃんにも感染して、死んでしまったらどうするんだ? 責任取れるのか」
 立花君は、怒りで震えた。それは僕のことか?
「分かるけど、その人にはその人で、事情があるだろう。もしその人が、フリーター(非正規労働者)なのだとしたら、貯金も少ないだろうし、仕事を休む余裕、ないんじゃないの。こんな状況だし、いつ働けなくなるかも分からないし、働ける時に働きたいんじゃないの」
 尾崎君は、さらに反論する。
「でも、安倍さんが、現金給付するって言ってたし、なんとかなるだろ、若いんだから、どうにでもなるだろう」
「それは暴論だね、現金給付? どうだろう、貰えるのかな? あのおぼっちゃんたちが、僕たちのこと気にしているとは思えないけど」
「でも、結局、金のことは金でしか解決出来ない。だろ? 俺たちは、天から降って来る金を待って、降って来た時一斉に、ばあっと群がって、鷲掴んで、胸に仕舞い込んで、ばあっと散って行く。働いて稼ぐって、当たり前のことが出来なくなったら、そうするしかないんだ。それが俺たちの姿だ。俺たちは金のことばかりいつも気にさせられてる。金がなくちゃ生きて行けないからな。俺たちは、金の下の平等の下の透明な存在だ。金と同じ程度に、俺たちは透明だ。だからといって、金の亡者になっちゃいけない。忘れちゃいけないことがあるだろう。幸せとか、命とか、そういうもののことを。いくら金に困っていても、周りにいる人のことを忘れちゃいけないんだ」
「それはそうだけど、その通りだけど、あなたも言ったように、それでも金だ。金がなければ生きて行けない。綺麗ごとじゃないんだよ。手を汚さなければ、生きて行けない。非正規労働者の苦しみは、そう、透明だよ。金と同じくらい透明な苦しみだ。その透明さのせいで、誰かに感染してしまうかもしれないとか、年配の人たちのことを忘却しているのかもしれない。でも、その透明さを背負った人は、透明さと、不透明さの間で揺れているんだと思うよ。金の透明さと、誰かの死の不透明さの間を、行ったり、来たり。利己主義でも、ムラ主義でもない何かが、その揺れの中にあると思う」
 尾崎君は問う。
「何だそれは、意味が分からない」
 立花君は考える。
「きっとあなたも揺れているんだと、僕は思ってるよ。だから、あなたが間違っていると思う意見を、力づくで排除することが間違っていることを、あなたは知っているんだと思ってる。知っていて、知らないふりをしているんじゃないの? なぜそうするのか分からないけど」
「気持ち悪い、いい加減にしてくれ、どうもお前とは話し合いにならないようだ。さようなら」
 立花君が作ったアカウントからは、尾崎君のアカウントへの投稿が出来なくされた。


 尾崎君がアルバイトを休んだ。
 そして店長から、尾崎君が新型コロナウイルスに感染したことが発表された。店はしばらく休業するという。
 尾崎君は、1周間前から体調を崩した。体調が悪いのを、隠して出勤していたことが、保健所の人の聞き取りで判明した。1週間前といえば、立花君が体調を崩した日よりも前である。
 同僚たちは尾崎君の話をした。
「有り得なくね? 自己中過ぎでしょあいつ、マジ死ねよ」
「SNSで利己主義利己主義ってほざいてたよね、完全ブーメランじゃん」
「馬鹿だと思ってたけど、本当の馬鹿だったんだな。あーあ、どうしてくれるんだよ、どうなるんだよ、俺たちもコロナなわけ? あいつのせいで?」
「私んちばあちゃんいるんだけど、ほんと、ばあちゃんに感染ったらどうするんだっつうの、ばあちゃん1人ぼっちで死ぬじゃん」
「感染した人のこと攻めたくないけどさ、でもあいつはなあ、元々嫌いだし」
 みんなの視線が立花君に集まった。ずっと黙っていたからだ。立花君は、何か言わないと、と思い、口を開いた。
「本当、有り得ないよね、馬鹿だよあいつ」

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