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これからの時代の生き方の選択肢~ニーチェ、アリストテレス、ウィルバーあるいは釈迦~

こんにちは。榎本です。

今回はインテグラル理論でロバート・キーガン教授から寄せられた次の言葉から、これからの時代の生き方の4つの選択肢をまとめたいと思います。

「現代には3つの選択肢がある――アリストテレスか、ニーチェか、
さもなければウィルバーだ」
ロバート・キーガン(ハーバード大学教育大学院教授)

この言葉は実は、下記の哲学教授アラスデア マッキンタイア氏の「美徳なき時代」で提言されているイシューです。

ニーチェかアリストテレスか

(※一部哲学好きの間ではまあまあ知られていますが、哲学書で結構難解かつお高いので軽いノリで買うのはおすすめしません笑。上記インテグラル理論は大分大衆向けに書かれているのでおすすめです。)

下記のnoteで人間のあり方を系譜学的にみていきました。そこでこれからの時代で求められる大まかな方向性は提示できたと思います。
そこでここではさらに一歩踏み込んで、マッキンタイア教授とウィルバー氏の知恵を元に4つの選択肢をまとめたいと思います。

前提の整理

まず下記の大前提として「道徳=かくあるべし」のあり方の系譜をまとめたいと思います。(一部上記のnoteにまとめているのですが、これが主題になっていないので解説)

ローマ帝国などの古代中世の国家は「人々かくあるべし」という共通善をベースに運営されてきました。(『「組織」と「法(契約)」の時代とあり方』で述べた共通の「物語」のことです。)

しかし、近代国家では上記noteの『「自由」と「合理性」の時代とあり方』が進み、市民革命や個人主義の考えが加速し、本来の人間性を論理と言葉で脱構築したので、この重要な「物語」までが取り払われて共通善の空洞化が起きます。

さて、これはニーチェの「道徳の系譜」を読んでもらうとキリスト教という超大成功物語モデルなどと絡めて詳しく語られていますが、この共通善の空洞化によるルサンチマン的な構造や啓蒙主義的なあり方が本質でない!ということで、アリストテレスとニーチェは等しく選択肢たりうるとマッキンタイア教授は述べています。(結論としてはアリストテレス推しですが)

ニーチェの「神は死んだ」も、この人間の脱構築によって殺されたということです。

noteにもここまでのことを本当に簡略化して書いてました。

精神的な意味では、「組織・支配」の時代では「物語」が残っていたので、人生の意味をそこに投影することができました。しかし、徹底的に論理的な態度を取ることで人は「意味」まで手放すことになりました。

ここまでを簡単にまとめると、個人主義が進みすぎていて、各々の人生の選択肢を完全に見失っている、ということです。

見失っているので、「年収」や「いいね数」みたいな世間的な価値基準に引っ張られやすいというのもありますね。

前提の上での課題

上記の前提の上で、政治・経済・社会の観点で問題も起きています。
詳しくは下記にまとめました。

現在の資本主義はマルクスが主張するように問題を秘めております。
上記noteで説明したように富を持続的に拡大させ続けることに成功した素晴らしいモデルには違いないのですが、下記の図にまとめたようにシステムの結果として数々の問題はおきています

複雑系的な概念のシステムになっていますが、端的にまとめると次のような課題です。

・国家によって暴力を最小限化したが、近代国家間では暴力の最小限化ができていなく(核兵器など)争いが激化する可能性が常にある。また資源が必要なため、資源による無限拡大のリスクがある。(人口増加)
・資源枯渇でゼロサムゲーム化した時に、再び覇権争いが激化する
・資本主義システムは共有資産の概念あれど、格差が拡大に寄与しており、それが「自由でフェアなゲーム」の前提を崩してしまう
・その箍が外れた時に、資本主義内での覇権争いが起きる
・変容を進める際も、社会的分断や内的な痛みによるマスターベーションに走ってしまい、主体的な世界の変容ができない

これらいろいろな課題を解決に進める思想を今日は考えたいという形です。実は端を発する点は、人間の「欲望」です。「自由でフェアなゲーム」のため、市民の正しい選択次第でこのシステムのエラーはいくらでも取り除くことができます。
そのため「欲望」の根源にある「善」を正しく据えることで、社会をより良くできるということです。

しかし現状の問題は、「欲望」が俗に言う「報酬系」で衝動的な欲求=快楽に流されてしまっているため、その場の気持ちよさを優先し、それによって大きな問題を生じています
まるで回し車にとりつかれたモルモットのように今人間は生きています。

ここからどう生きるべきか?を次の指針を元に見ていこうと思います。
ヘーゲルが「人倫国家」と呼んだ上記課題の矛盾を超えるための選択肢です。

ニーチェ:独自の価値体系を打ち立てる(超人思想)

1つ目の方策は、ニーチェが提示している超人思想=「自分独自の価値体系を作れ!」ということです。
個人主義で価値に底が抜けている=多様性だからこそ、自分の独自の生をありありと感じる意志的欲求を作ります。
この欲求は独自の価値体系を作る人であれば原理的に「利他的な」欲求になります。
※主体的真理という言葉でも表現できます。

そちらを各人が打ち立て、その上で「自由でフェアなゲーム」に参画していくことは他のどの思想よりも現代のシステムにマッチすると思います。
インターネットの個人主義的な設計はまさにそれに合致しているからです。
これはアドラー心理学の考え方にも近いです。

これの課題としては個人でその主体的真理を見つけていくのは至難の技ということでしょう。
そもそもその過程での「痛み」と向き合うことができず、精神的オナニーに走ってしまう現象を上記のシステム図でも示しました。

そのため、今後はより人間の意識的発達のためのコーチングやカウンセリングのようなパートナーを見つけることが非常に重要になると考えられます。

アリストテレス:共同体・コミュニティ(目的論)

次の選択肢として、共同体・コミュニティを形成することです。
人はコミュニティという場があることで、システム的な都市の中では感じづらい利他性を自然を回復させることができます。

隣人というものや関係性ができることで、そこに居場所が生まれ、道徳というものが生まれるというのがアリストテレスの思想です。

アリストテレス自体がイデア的なもの(共通善)は必要なく、現実的な知識(徳・アレテー)から導き出されると言っています。つまり、良いことを知ったら良いことをせずにはいられないような共同体が重要ということです。

つまりそれは、隣人であれば何かしてあげたくなる、というルールを脱構築せず、底の抜けた社会に底をそもそも用意すること。なぜするのか?という疑問もなく、ただするという状態を作るということです。

こちらの現実的な問題としては、地域社会性がなくなりインターネットによるデジタル化(全てがデータ化・座標化)した世界の中では開かれたコミュニティを形成していくということが非常に難しくなることです。

今はオンラインサロンなどでこうしたコミュニティを取り戻す動きもありますし、コミュニティの価値を見直す動きは出てきているので、こちらに期待することでより良いあり方が生まれると思っています。
現代のシステムにも合致する部分がありつつ、新しい消費や経済の形が生まれると思います。

ニーチェよりはコミュニティ形成自体は困難ですが、コミュニティが形成されれば、倫理的なあり方を持つのは容易かと思います。

ウィルバー:神性(スピリチュアリティ)による愛と統合(統合的宗教)

さて次がインテグラル理論で有名になったウィルバーです。
ウィルバーのやっていることは、「それぞれ共通の善なんてものはない」というニーチェ(だから自分の善を打ち立てる)とアリストテレス(だから共同体で担保する)とは大きく異なり、統合的な真理に向かう宗教を作っている点でしょう。

どういう事かというと、各宗教の真理とされているものを統合的に整理して、それを体系化して到達できるようにして「真理=共通善」というものを用意して、みんながその真理を信じることで各人によって幸せが違うという前提から覆しているということです。

しかし「人によって価値観は違う」というのは使い古された考えですが、果たして共通善・真理なんてものを確立しうるのでしょうか?
それは怪しい新興宗教のそれとは違うのでしょうか?

ここからは私見となりますが、「言葉」のレイヤーでは真理なんてものはありえません。普遍的な本質を抽象化していろいろ探そうとしても、結局は虚無的な言葉になったり、ただただ抽象性が上がっただけになりかねません。

しかし、「言葉の外」のレイヤーでは「身体性」としては驚くほど共通の真理に到達できます。インテグラル理論は見事の研究の深さ・広さと、言語化力でそれを体系化している点が功績と言えます。

さてこれの難点は複数あります。
まずは宗教的な教義に近いため、「言葉」で疑う人ほどこれを信じがたいと思ってしまうでしょう。「科学教」とも言える現代ではこれはかなり高いハードルです。

また、この教義をウィルバーはキレイに言語化していますが、言葉で知ってわかった気になる人が大勢いそうです。「大乗仏教の罠」と呼ばれる部分です。こうした真理は「言葉の外」=「体感」でなければわからない領域にあります。
ここを見抜かなければとんでもない怪しい新興宗教にハマってしまい、搾取される可能性は拭えないでしょう。(しかしそうやって、リスクを考えてしまうと真理まで到達できないのがもどかしいです。)

さらにその上で現代の社会システムと整合性を取る必要があります。「共通善」を前提にした世界ではいろいろな部分で「自由でフェアなゲーム」からは変わっていくでしょう。

正解に見える誤答→信用スコア

さて、ここで現状のシステムのままでこの課題を乗り越える試みがあります。中国共産党の信用スコアです。

信用スコアとは個人の持つ信用力を数値化・可視化したもので、個人のデータを元に人工知能(AI)がスコアリングします。信用スコアサービスを運営する企業が、外部の提携企業などを通じて個人のデータを収集します。たとえば、提携企業のサービスにおける、ネット通販の利用履歴やWebサイトの閲覧履歴などです。
データを収集する際には、情報を提供する本人からの同意が必要となっており、提供したデータへの対価として、さまざまな特典や優遇が受けられる仕組みになっています。

中国共産党は人権を無視できる特権があります(ルソーの一般意志の概念がない)ので、個人を全て信用スコアで測ることで、善いことをするのが得なこと、悪いことをするのが損なこと、という評価軸を用意することができます。

これによって人はあたかも「人倫国家」風の衝動的欲求に負けない決定ができそうですが、その内実は人から良心や善意といったものは失われ、結局は人助けをするのは「得」だから、という社会が作り上がります。

システム化の極地と言えますが、実は一番実効性の高い取り組みです。
ニーチェ・アリストテレス・ウィルバーに至るまで、国家規模で整備しようとするのは少し考えればかなりの難易度であるとわかるでしょう。

僕のnoteではこの選択肢はあるべき選択肢からは外したいと思います。
それは僕の「意志」としてです。

例外的な回答→釈迦:相対主義の中で諸法無我・諸行無常を保つ(涅槃寂静)

さて番外編の回答として、善悪なんてものすら一切なく、「ただある」釈迦を目指す方法も可能でしょう。

そうなった場合に、果たして経済活動や政治活動が営まれるかは謎ですが1つの選択肢と残しておきたいと思います。

近代化の絶望から希望を見出す

近代化はロジックと言葉によって本質を整理して、様々な有効なシステムを作り上げました。
しかし、どうしても「言葉」で考えたシステムには限界があります。
それには身体性による解決がどうしても必要になるでしょう。

かくして絶望した現代の思想家や哲学者は、ポストモダン思想というただの相対主義的な位置に安住して、認知的不協和や自分の「痛み」から目を背けてしまっております。

そんな中では少しでも希望を見出だせる思想が必要です。今回はまずは既存の人類の作り上げた武器を整理しました。
まだこの世界には希望があるはずです。みなさんとより良い世界に向けてそれを模索していきたいです。

ではでは。

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