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言葉を好きでいたい

悲しい事件が起こった日、Twitterのタイムラインには「人を傷つける言葉」の恐ろしさをつづるTweetが溢れかえっていた。嘘みたいなニュースが現実味を帯びるとともに、胸の奥の方がすっと冷たくなるのを感じた。

いろんな批判や議論が1日経った今日もあちこちでつぶやかれているけれど、100%同意できる意見がなかったから、自分なりに思ったことをここにまとめておきたいと思う。

#SNS上の誹謗中傷が法に基づいて裁かれる社会を望みます

本当にそうだろうか、と思う。

一部を除いて、ネット上で誹謗中傷を投げかける人は、その人なりの正義感を持った行動なんだと思う。彼らには、間違ったことをしている認識はなく、場合によっては辛口レビューくらいのつもりで酷い言葉を本人に送り付けていた人もいるかもしれない。僕自身、彼らのそういった正義感や行為自体には共感しないし、それを認めるつもりは全くない。

彼らを法の下に裁き、処罰を下すことは果たして本当の意味で解決になるのだろうか。一度でいいから、真剣に考えてみてほしい。

ある程度は今に比べて、ネット上で露骨な誹謗中傷は少なくなるだろう。でも、法は法。人の心を本質的に抑え込んだり、正しいほうに導くことはできるだろうか。僕はそうは思わない。きっとネット上の誹謗中傷を法に基づいて裁くことができるようになっても、その中で人は人を傷つけ続けるだろう。罪に対して罰を設けることは、本質的に罪を犯す動機を抑え込むことには繋がらない。「この人に言ったつもりはありません」「これは私自身の言葉ではありません」と、あの手この手で逃げ道を作って、人を傷つける言葉は溢れ続けるだろうと思う。

当然、ある程度のガイドラインやルールをしっかりと定めて、取り締まるということは必要なことだと思うし、それを否定するつもりはないけれど、制度の上にネット社会を生きる僕たちには、根本的に意識を改める必要性がある。

これを言ってしまうことはかなり怖いことだけれど、正直なことを言うと、彼らの中に自分の断片を感じざるを得なかった。実際に誹謗中傷を投げかけることはなくても、番組を見ているときは彼女に対して「どうしてそんなことを言ってしまえるんだろう」と思った。SNSで彼女のアカウントを見たことはなかったし、ましてや誹謗中傷のコメントをどこかに書き込むことはなかったものの、彼女の人格を否定するようなひどい言葉や誹謗中傷をネット上に書き込む人たちは「行き過ぎた自分」の権化として、「あったかもしれない自分」の可能性のひとつとして、いま僕の目には映っている。

彼女の死という事実を目の当たりにして、誹謗中傷をしていた人たち批判する人は、これまで誰かを意図せずして傷つけたことはないのだろうか。この先も誰かを傷つけることは一切ないと言い切れるだろうか。自分に向けられた言葉でなはいとはわかっていても、誰かが発した言葉に傷ついたことがある人間であれば、言葉が時に誰かを笑わして、感動させるのと同様に、人を傷つけうる可能性は本人の意図や思いとは裏腹に、常にあるということはわかるはずだ。

もしもいつか誰かにそれを指摘されたとき、自分にとって都合のいい解釈で逃げてしまうことは簡単だ。「それはそれ」「これは別にそういった意味で言った言葉じゃない」。その言葉は、彼女に誹謗中傷を浴びせかけた人と同じ論理に陥ってしまっていないだろうか。それを踏まえたうえで、改めて聞きたい。

これまでも、これからも、意図せずして人を深く傷つける言葉を言わないことができるだろうか。

僕たちは言葉を使って人と接している限り、誰かを必ず傷つける

完全な悪意を見た時、人は恐怖を感じる。そして、その悪を自分とは切り離して考える。自分はそんな風に人を傷つけない、人を傷つけるようなことを平気で言う人たちは恐ろしいし厳しく処罰されるべきだ、と巨大な壁を作って彼らを切り離す。いまTwitterに溢れかえっている批判の多くは、そういう壁を作っているように僕は思う。

その恐怖を自分自身の内側において考えることは、とても苦しいことだと思う。僕自身、悲しい事件が起こる度にそうしようとして、本当にしんどくなることが、これまで何度もあった。それでも、僕たちが言葉という道具を持った人間として、同じ生き物である限り、理解できない人と自分のあいだに壁を作ること、それ自体が人を傷つけるという行為の根底にあるのではないだろうか。

それでも、自分は彼らと違う、と強く言える人はそれでいいと思う。でも、人に厳しい言葉を投げかける人間は、あなたと同じ世界に生きる人間です、ということをほんの少しでいいから頭の片隅に入れておいてほしい。

いま、彼女に浴びせられた誹謗中傷の数々を見ていると本当に心が痛む。濁った水に綺麗な水を注いでも元の濁りは消えないのと同じで、一度深く傷ついてしまうと、優しい言葉はその人に届きにくくなる。全員が敵のように見えて、どんな言葉も自分を傷つけるような言葉に思えてくる。彼女を救えなかったのは、ネットの普及スピードに追い付かなかった法の整備でもなく、優しい言葉をかけられる人間が近くにいなかったせいでもない。僕たちが真剣に悪意と向き合ってこなかったせいだ。

「思いやり」は自分の視点を他人のもとにおいて考えること。本当の意味で「思いやり」を人が持とうとするとき、僕たちはどんな悪意や暴力も、それを一度自分の内側において、自身に問いかけながら考えてみなければいけない。それがとても苦しいことだとわかっていても、僕たちは逃げてはいけない。

人は、生まれながらにして弱い生き物だと思う。だからこそ、日々の生活に小さな愛を感じた時、「人にやさしくありたい」と思うその瞬間が、かけがえのない美しさを持って輝くのだと思う。僕はずっと不器用な「人間」を、不器用な「言葉」を、好きでいたい。

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