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ハサミを持ってる人とはケンカしたくない。

 美容室ジプシーという言葉をご存知だろうか。

 言葉から雰囲気は伝わると思うが、担当の美容師・美容室が決まらず近隣の美容室を転々とさすらう状態を指して言う。

 本来の話、美容師さんに求めるのは技術だけだろう。だがなぜか美容室を利用する上で、美容師さんとの相性はかなり重要だ。

 軽い雑談などを交わしながら施術してもらうことになるからか、好感を持っている人に髪を手入れしてもらいたいという願望からか。

 私も昔は担当の美容師をつけることの意味が分からず、同じ店に行って毎回担当を指名せずにいたのだが、なんだか美容師さんがみんなやりづらそうなので止めた。

 美容室は専属の担当をつけるもの。一度担当をつけたら変えないもの

 それが暗黙の了解らしい。

 だからこそ『専属の美容師』への期待は大きく、いい人が見つかるまでジプシーすることになるのだ。このシステムでいいのか美容業界。デメリットもあるぞ美容業界。

 まあ、そんなわけで私も昔、いろんなお店でホットペッパービューティーの初回クーポンを使い、さすらっていた。

 ある晴れた日、私は道玄坂にある手狭な美容室に入っていった。

美容室の看板

 そのお店は初回クーポン利用でカットが2000円と格安だったが、通常のカット料金も4000円前後で安めの値段設定だ。

 中には今だったら「密です」と言われかねないような間隔でイスが立ち並び、ほとんど満席のようだった。

「予約したYeKuイェクですけど」
 と伝えると、男性の美容師さんが笑顔で出迎えてくれる。

「いらっしゃいませ! すみません、今男性の美容師しかいないのですが、僕でもいいですかあ?」
 と少しひきつった笑顔で聞かれた。

 私は内心ちょっと顔をしかめたが、「いいですよ」と答える。

 個人的に、知らない男性に髪や体を触られるのが生理的に受け付けない。なので毎回女性美容師が所属していることを確認の上、備考欄に「できれば女性の美容師さんでお願いします」と書いている。

 まあ「できれば」というだけで、絶対にイヤというわけでもないので受け入れる。ただし、今聞くぐらいなら、事前に連絡してくれればいいのにと思わなくもない。

 私はうながされてイスに腰かける。

美容師さん

 最初に出迎えてくれた男性がそのまま担当してくれるらしかった。彼は細身で肩まで伸びた黒いロン毛をソバージュにしている。美容業界の男性はおしゃれな髪型でも浮かないからいいなあ。

 美容師さんが笑顔で聞く。
「今日どうしましょうか?」
「少し明るい感じに軽くしたいんですよね……」
「短くしますか?」
「はい、でも肩の少し上ぐらいまでで」
「分かりました!」
 と言って男性は施術にうつった。チョキチョキと軽快にハサミを入れていく。

 そうしながら話しかけてきた。
「いやー、美容師ってキツイ仕事なんですよねー。俺辞めたいんすわ」

 何を言っているのだこいつは。

 私はこの時点で、じゃっかん機嫌が悪くなった。

 今考えれば、その美容師さんにも色々思うところがあったのだろう。

 でもその時は、なんでこの美容師さんは初対面の客を前に、「辞めたい」などという、仕事へのモチベーションが感じられない発言をするのだろうと不快になった。良く考えたら最初に出迎えた時も、「ワガママ言うんじゃねぇ」みたいな気持ちが透けて見えていた。いやだなあ。

 なので私はまったく表情を変えず、
「辞めたらいいじゃないですか」
 と答えた。

 美容師さんはちょっと沈黙した。
「……いや、辞められないっすよー」
 ちょっとムッとした声で答える。

 いや、どういう反応求めてたのよ。ムッとするぐらいなら辞めたいなんて言わなきゃいいじゃん。

 私はさらに続けた。
「辞めたいなら辞めればいいじゃないですか。イヤだと思いながらやってるのは時間の無駄ですよ」

 正論である。

 正論であるがゆえに美容師さんのお気に召さなかったらしい。彼の顔は凍り付いていた。
「……そんな簡単に、無理ですよー」

「独立してお店を持つとか」
「そんな金ないっすよー」
「借金すればいいじゃないですか」
「いやいやいや、失敗したらどうするんすか」
「失敗して返せないなら自己破産すればいいんです」

 チョキチョキチョキ、とハサミの音だけが響いている。
 隣の席の美容師さんとお客さんは、みな楽しそうだ。

 今更ながら、初めて行った美容室でかわす会話内容ではない。

 その後、美容師さんは言葉少なになり、固い手つきで私の髪を切り、もはや笑顔もなく「こういうのをレイヤーを入れるっていうんですよ。分かります?」と上から目線で講釈を垂れるなどしてきたが、私は岩のような無表情でやり過ごした。

 世の中にはいろんな美容師さんがいて、もっとひどい人に当たったこともあるが、怒ったことはない。

 しかしこの時、あまりにも態度が悪いので、よっぽど途中で帰ろうかと思った。でも、ちょっと意地になっていた私は最後まで頑なに座り続けた。

 最後まで施術してもらい、千円札を二枚置いて帰る。

 見送りの時、美容師さんは顔も上げようとしなかった。

 まあ良く考えたら、初回クーポンを駆使され、低単価で朝早くから夜遅くまで働かされている美容師さんが割に合わないと思っても無理もないことだ。休みも少なく、有給休暇も満足に使えない。美容師さんの労働環境は、まるで現代の奴隷労働である。

 こういう経験もあって、私はあまり安い美容室には行かないようにしている。

 接客の質が低いからではない。

 私の髪を切ったり、癒してくれる美容師さんには、なるべくいい暮らしをして幸せでいて欲しいからだ。それを望むなら、お金をケチらず、自分の収入の中で可能な限りの対価を払うべきだ。

 そうしたからといって美容師業界の労働環境が良くなるわけではないのだが、消費者にできることはそのぐらいしかない。

 もともと美容師さんは、誰かをきれいにしてあげたいとか、癒してあげたいというモチベーションでこの道を選んでいる、信じられないぐらいすてきな人たちだ。すばらしい職業だと思うし、キツイ労働環境の中、それでも人のために笑顔でがんばる姿には尊敬の念を抱いている。

 私は美容師さんが好きだし、今の担当美容師さんのことが大好きだ


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