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他人を信じられない人についての考察

他人を信じられない人、他人に助けを求められない人が一定数いると思う。

私も基本的にはそうだ。

過去にイジメや虐待、迫害などを受けた結果、他人に対する基本的な信頼感が欠如している。

いつ周りの人が牙を向き、自分を攻撃してくるか分からないと思っている。

そういう人にとって、人間は仲間でも味方でもなく、未来の敵か、利害が一致している一時的な味方に過ぎない。

だから絶対に弱味は見せられない。なるべく感情を抑えて、一見社交的な仮面サファードを作り、本当の意味では他人に自分を見せないようにしている。

偽りの面をどう攻撃されても、痛くも痒くもないからだ。

他人を信じられる人と、信じられない人の世界観は全く違う。

他人を信じられない人にとって、多くの人の中にいるのは苦痛で不安だ。逆に他人を信じられる人は、多くの人の中にいると、仲間意識を持つことができて、安心するようだ。

他人を信じられない人は、助けを求めることができない。

そうでない人には想像できないぐらい、他人を信頼して助けを求めることが怖い。

助けを求めて助けてもらえないどころか、逆に攻撃に利用されると「自分は、助けてもらえる価値のない人間なのだ」と絶望を感じてしまう。みじめで、壊れた。

自分が無価値だと思い知らされること以上の苦痛があるだろうか?

もちろん、本当は、一人から助ける価値がないと判断されても、全人類の判断とは程遠く、それによって自分に価値がないと決まるわけではない。

それが正論だと分かっている。頭で分かっている。

でも必死の思いで震えながら助けを求めたのに、助けが得られなかった時の絶望を和らげるわけではない。

だから、人に助けを求めるのは本当に怖い。自分の腹を見せても、傷つけられないと信じること。

でも、だからこそ、助けてもらえた時の感動は大きい。

今まで他人から受けて来た軽蔑や、無視、攻撃的な態度や悪口雑言の数々が報われるのではないかと思えるほど嬉しい。

恐らく、他人に対する信頼感が無いとしても、本当に人間が嫌いなわけではないのだろう。人間らしい絆が欲しくない訳ではないのだろう。ただ怖いから寄せ付けたくないだけなのだ。

私の場合

親に対する不信感のせいでいわゆる安全基地がどこにも無かった上、十代の頃は特殊な生い立ちから他人を完全に無視することで精神を保っており、信じるとか信じないとかそういうレベルの話ではなかった。

他人は自分の世界に存在しないものだった。

さらには、新卒で初めて入社した会社がかなりの昭和体質で自他に厳しい社風であり、ミスが全く許されず、お互いがお互いのミスを見つけて厳しく咎めるチャンスをうかがっているような、弱肉強食の環境だった。

とにかく人を褒めない。叱る時は人格攻撃ギリギリまで詰める。飛び交う舌打ちに罵声。

当時私は社会経験の薄さから、他人からの好意をはっきり感じられないと、嫌われていると感じる極端な世界観を持っており、叱られてばかりだと自分の存在価値に自信が持てなかった。

この会社での経験から、周りは責めるチャンスを見計らっているものだというベースの感覚を得てしまったと思う。

とはいえ、人生においてずっと他人を信じられなかった訳ではなく、恋人や仲の良い親友がいる間はある程度緩和されていた。

それでも、転職して他人に厳しい社風ではなくなっても、ずっと他人を信じられなかった。

しかし転職して数年後、疑いようもなく馬鹿みたいに誰にでも優しい人と一緒に仕事をする機会があった。優しいと言うよりも、自分と他人の区別がついていないのではないかと思うぐらい、徹底的に利他的な人だった。

私ですら、その人が私に対して軽蔑的な態度を取ったり、攻撃することを想像できない。むしろ何があっても敵にはならないだろうと容易に信じることが出来る。

それによって「もしかしたら人は信じられるのかも知れない」と考え直すきっかけになったし、そもそも、自分がバリアのように他人を遠ざけている不信感にも気づいた。

それまで、自分が全く他人を信じていないかもしれないとは気づいていなかったのだ。

考えてみれば転職してから、客先はともかくとして自社の人間から馬鹿にされたり、ミスを責められたり、解雇を盾に攻撃されたことは一度も無かった。何を根拠に彼らを信じないと決めているのか、自分でも不条理だと思った。

私は、試しにその辺に座っていた同僚をランチに誘い、抱えていた仕事の不安や悩みを相談してみた。

何でもないことのように聞こえるかもしれないが、問題解決において「他人に相談する」という習慣が全くない人間からすると青天の霹靂である。

実際、「悩みを相談するためにランチに誘う」というのは人生初であった。

いやそもそも、ランチを共にしたい相手があまりいないので、「仕事を円滑にするための社交的な儀式」以上の理由でランチに誘うこと自体が稀であった。

当然、私に悪意を持っていない同僚は快く応じてくれて、悩み相談にも乗ってくれたのだが。多分そうだろうなとは思っていたものの、実際に力になってもらえると想像以上に嬉しく、ホッとした。

別に同僚が身銭を切って何かしてくれたとか、大したことではないのだが、「自分に大したメリットがなくても、助けてもらえるものなんだな」としみじみ心が温かかった。

本当に、こんなことでも、他人を常に疑って生きている人間にとっては大きい。

ちょっとした気遣いや、助けようとしてくれること、助けを求めたら助けてもらえること、興味を持って見守ってもらえること。

振り返れば、そうしたちょっとした優しさを向けてくれた人はたくさん居たのに、気づいていなかった。

無意識に、優しくしてくれる人は何かの打算や利益が得られるからこそ、そうしてくれるのだと考えていた。

実際に打算で近づいてくる人はいるので、誰も信じていないことがプラスにはたらくことはあるだろう。

でも、騙されてもいいから人を信じるか、騙されたくないから人を信じないか、どちらの人生に実りがあるかは結果を見ないとなんとも言えない。

ただ、人と深い絆を築く上でこうした他人への不信感が足を引っ張ることは間違いない。

私自身仲良くなってみたら全然悪意のない、いい人だったというケースは多々ある。

だから、人を信じられない、頼れない人は、

もし「この人は信じられるかも」と少しでも感じたら、思い切って頼ってみてほしい。

それは誰かに心を開くきっかけになるかもしれないし、ひいては新しい絆を産み、人間全般に対する不信感を払しょくするきっかけになるかもしれない。

もし良い結果に終わらなかったとしても、「やっぱり自分は助けてもらえる価値がない人間なんだ」と思わず、相手が今はそういう心境じゃなかったんだろう、と考えて、めげないで欲しい。

人から助けてもらえると、「助けてもらえる自分で良かった」と宝物のような喜びを得られるはずだ。

他人に対する不信感を完全に取り除くのは難しい。

それは一種のトラウマに近い。

積極的に人と関わって、怖くても人を頼って、成功体験を積み上げることでしか解消できない。

私も完全に解消できた訳ではない。気を抜くと、すぐに自分の殻にこもってしまう。だってそれが一番楽で安全だから。

でも人間として生きる上で、人との絆は時に無限大のリソースになる。一つの絆が他の絆を呼んで、大きなうねりになることだってあるからだ。それが太古から続く、人類の強みなのだ。

自分の人生を変えたい時、勇気を持って踏み出してみる価値は十分にある。
願わくば、(私を含めて)他人を信じられない人たちが、いつか適度に周りを信頼し、上手に頼れるようになれれば良い。


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