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自分を守るために引きこもった子どもの話。

 私は中学1年生の頃から、以降、4年ほど引きこもっていた。
 これは、引きこもりに至るまでの、崩壊していく家庭の話だ。

困窮する家計

 物心ついたときには父がおらず、私は母一人に育てられた。

 私が小学校低学年ぐらいの頃、母は内職で生計を立てていたように記憶している。

 『アトリエマリア』という、手芸作品を販売しているお店で、セーターにお花を散りばめる作業を引き受け、それを週に一度、ママチャリで納品しに行っていた。

 小学校から帰ると、母はいつも部屋の奥で座椅子に座り、膝の上でセーターを広げて作業していたものだ。このときの母はとても穏やかで、いつも「おかえり」と優しく迎えてくれる。私はそういう母に甘えるのが好きだった。

 でも、やはりそれだけでは収入が不足だったのだろう。ある頃から、母は仕事を求めて毎日のように出かけるようになった。

 でも、五十代のシングルマザーで、たいした職歴もない母だ。なかなか雇ってくれる所は無かったようで、毎日肩を落として帰ってくる。事情の分からない私は「仕事見つかるの?」と無神経に聞いていた。
 母は、耐えかねて「うるさい!」と私を怒鳴りつけることがあった。私はわけも分からず、怯えた。

 なんとか仕事が見つかっても、どうもあまりうまく行かないようだった。母は長いこと換気扇の下でタバコを吸って、「バカ」とか「なんなのよ」とかブツブツと独り言を言うようになった。

 事情の分からない私は母の苛立ちに、嫌な感じがしていた。

 それでも母は、シングルマザーだからこそ、私を完璧に育てようとしていたと思う。食事はだいたい手作りで、必要な物は買い与えてくれたし、休日はなるべく外に連れ出してくれた。

 でも、やっぱりそんな生活は無理がある。母は日に日にイライラを募らせていった。
 私が小学校高学年になる頃から、私が家事をやらないことに怒るようになった。

追い詰められた母が追い詰める私

 ある日「おかえり!」と喜んで出迎えると、母は無表情に「ただいま」と言って、風呂場を見てこめかみを引きつらせ、「お風呂でも洗っておいたらどうなの?」と嫌味を言った。
 洗ってと頼まれていたのかもしれないが、よく覚えていない。いずれにせよ、10歳前後の私に細かいタスク管理は無理だったと思う。

 後日、母の顔色をうかがって、「お風呂洗ったよ」と出迎えると、母は「そう」と言ってから、今度は「洗い物は? どうしてしてないの?」と言った。

 ふつう、こういう時、子どもは、「ごめんなさい」と謝って、より家事を完璧にできるよう、頑張るのだろうか。

 でも私の反応は違った。

 私はイラッとした。
「なんでそんなこと言われなくちゃいけないの? お風呂は掃除したじゃん」
 こうなると待っているのは大喧嘩である。大の大人が子どもをむきになって怒鳴りつけ、子どもは泣きながら反論する。

 母の追い詰められた気持ちは、今ならわかる。でも私は母の彼氏ではなく、10歳前後の子どもである。母が大変そうな様子から全てを察して、気を利かせて家事をやっておくなんて、世の中の旦那ですら出来ないようなことを急に求められても困る。

 私なりにがんばったのだけれど、「泡がちゃんと落ちてない」とか「食器のしまい方がおかしい」とかで文句をつけられ、まず褒められるということがなかった。母は完璧を求めていたと思う。

 しかし私は、断言するが、数十年後の今になっても、母が求めるような完璧な家事は無理だ。マジで家事は向いてない。

 客観的に振り返って、母もかわいそうだが、私もかわいそうだったと思う。母を支えようと必死に機嫌をうかがい、自分を犠牲にしてもっと頑張る道はあったと思うが、そんなことしたら、ヤングケアラー、アダルトチルドレンまっしぐらだった。

 とにかく、母を出迎えると怒られるということを学習した私は、しまいには母が帰ってくる時間帯には昼寝していることにした。

 数日間、この作戦は功を奏し、何事もなく平穏に過ごせたのだが、しまいには揺り起こされた。

「あんた、ぜんぜん何もしてくれないじゃない!」

 私はちゃんと皿洗いもお風呂掃除も終わらせている。たぶん、うまくできていないところがあったのだろう。掃除しようとして汚してしまったとか、掃除用具をしまい忘れたとか。

 でも、そもそも子どもに完璧な家事なんて求めないでほしい。

 私は、母がなぜ完璧に家事をこなそうとするのかが理解できなかった。

 お風呂なんて入らなくても死にゃしないのだから、シャワーで済ませれば良いし、皿なんて1日放置したぐらいでなにか起きるわけでもない。料理は出来合いの何かでいい。その頃の母は、すべてを完璧にこなそうとして、目的を見失っていたと思う。

 このときに起きていた喧嘩は壮絶なものだった。

 私が下手に弁が立つこともあったのだろうが、母は言い負かされそうになると、言葉に詰まって、「産まなきゃよかった」とか「この役立たず」「父親そっくり」などと私をひどく罵って、手が出ることもあった。私は母に暴力をふるったことはないが、逆はよくあった。

 この頃の母の理不尽さは酷いものだった。それだけ仕事の負担が大きかったのだろうが、私としては当時、現状を鑑み、母は私にとって有害であるという感覚を強めていった。

訪れる限界

 もう無理だと思ったのは、中学校に上がって少しした頃だ。

 きっかけは、成績について文句を言われたことだったと思う。
 それ自体はたいしたことではない。だが、なんせ普段から「何の取り柄もない」だの、「能無し」だのと罵られているのだ。私は、私なりにがんばってやったことを、何一つ母に認められないという絶望に耐えられなかった。「もうだめなんだ」という暗い納得が、私の心に最後の楔を打った。

 その時、自分の中で母に対して持っていた、何かが終わった。

 私は自分を守るために、母のことはもう、母と思わないと心に誓った。母に否定される衝撃は、他人からのそれとは一線を画していた。私には耐えられない。それで、「もういい」と言って、自分の部屋のふすまを閉めた。そして外へ出なかった。

 母はそれから数日の間、食事の時間になると、「ごはんよ」と言ってふすまをノックしたが、私は無視した。

 ……無視しようとした。本当はふすま一枚を隔てて膝を抱え、声を殺して泣いていた。自分でも何がつらいのか、分からなかった。母のことはもう捨てると決めたんだ。泣くな、と思っていた。それでも、母がもう一度、もう一度だけノックしてくれたら、出て行ってご飯を食べようかと思ったが、それ以降、ため息と共に、ノックの音は止んだ。

 母が寝静まった頃に、物音を立てないよう外に出たら、テーブルの上にラップをかけた食事が置いてあった。私は部屋に持って行って、それを食べた。それは涙の味がした。

 このときは、母との一切のコミュニケーションを拒否して部屋の中に閉じこもっていただけで、母が仕事に行ってから、学校へは行っていた。

 でも数ヶ月すると、学校へも行きたくなくなって、完全に引きこもるようになった。その辺りの事情は、以下で書いている。

 以降、図書館や本屋には出かけたが、それ以外の理由で外に出ることはなく、基本的に部屋の中で本を読んだり、むかし買い与えられたワープロで小説を書いたりして過ごした。

 これが、私が引きこもるようになった顛末である。

振り返って

 母との関係はこのときにこじれて以来、あまり改善されていない。

 怒っているとか、憎んでいるというのとは少し違うのだ。言葉にするのが難しいのだが、母を信じる心が私から失われてしまったというのが正しい。母が私を傷つけないという確信、私を守り、味方でいてくれるだろうという信頼のすべてがもうないのだ。

 だから許したくても、許すこともできない。

 それに後年、母に、喧嘩や暴言のことを尋ねたら、覚えていなかった。「そんなこと言ってないわ」と言って否定した。母なりの防御反応で、酷かった時のことを忘れているのかもしれない。でも私は忘れられないのだ。母が忘れているということは私の苦しみに拍車をかけている。母の中では私がいつも悪者で、母は正しいのだろう。

 母が、きちんと働いて私を養ったのは事実だ。それは認める。だが、母は自分の判断で父と結婚し、子どもを作り、離婚して、私の親権を取った。すべて大人である母の、自分の判断だ。
 ペットを養育するのが飼い主の義務なら、大人になるまで子どもを養育するのは産んだ親の義務だ。

 施設育ちの方には怒られてしまうかもしれないが、なんなら、あの母に育てられるぐらいなら、施設に入れて欲しかった。それはずっと思っていた。16歳になって一人暮らしを始めたとき、その時に初めて私は心から安心して、全身から力を抜けたものだ。

 そして、私は独り立ちして以降、自分から母を頼ろうと思ったことはない。

引きこもり生活が私に残したもの

 引きこもり生活は精神的にも肉体的にも過酷だった。数年間、誰一人話し相手が無く、冗談抜きで気が狂いそうだった。母が仕事に行っている時は、独り言をずっと呟いて、自分と話すことで自分を慰めた。

イェクのアイコン
YeKuのアイコン

 私は、『母に否定された自分』を愛せず長く苦しんだ。再び社会に復帰するために、しっかりもので、何でもできる強い私(アイコン画像の猫の方)を新たに作り出した。そして何もできない、母に否定された自分(アイコン画像の人間の方)は誰の目に触れないよう、影に隠す。ある種二重人格的な境地に至った。

 以降、本当にいろんなことがあったが、今に至るまで、猫は私を守るつもりで押しつぶし、他人との心の交流を阻み、ひとりきりにした。

 誰かが私を憎んでも、その相手は私ではないから傷つかない。その事実は私を強くする。でも一方で、誰かが私を愛しても、その相手は、本当の私ではなかった。その結果傷つけてきた人も多いと思う。

 でもそうすることでしか、自分を守れなかった。すべては、私が必死に生きようとする中で、ただ起こるべくして起きた出来事だった。

 今はもう、それが苦しいのだ。猫ではない自分自身がものを考えたり、発言しなければ、辛くて生きていけないところに来てしまった。

 だから、noteにはありのままのことを書こうと思った。飾らない、嘘のない自分だ。

 これからも、noteにはありのままを書こうと思う。つたない自分語りで恐縮だが、もし良ければ、お付き合いいただけると嬉しい。

 また、こんな話に共感してくださる方がいらっしゃるかは分からないが、もしこの話が誰かの役に立てるなら、それ以上に嬉しいことはない。

 最後まで読んでくれて、ありがとう。

ありがとう

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