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忘れられない先生

これまでたくさんの先生(と呼ばれる人)に出会いました。私にとって先生との出会いは広い人生を彷徨う中の羅針盤となり、進むべき方向を指し示してくれています。

中にはガタガタな指針の先生もいましたが、幸いにしてそのような先生に人生をメチャクチャにされるといったこともなく、今こうして社会人となり何とか生活出来ています。

先生に当たり外れがあるというのは至極失礼な話ですが、人間だから合う合わないは当然あって、その意味で言うと私は先生との出会いに非常に恵まれていました。

その中でも小・中・高とそれぞれひとりずつ、印象深い先生を振り返りながら紹介したいと思います。

まずは小学校1〜4年生まで担任だったA先生。

先生は学校という場所での初めての先生でした。

4月の入学式の、初めて教室で先生とお話したことは20年たった今でも覚えています。

不安と緊張と、ちょっとの期待に満ちた私。周りは幼稚園から一緒の友達ばかりだから緊張することなどないのですが、如何せん小心者の私は緊張していました。

そんな中、先生はクラスみんなのところを回ってひとりひとりお話していました。もちろん私のところにも来てくれて、少しお話しました。

「お姉ちゃんいるよね?」

先生は4つ上の同じ学校に通う姉のことを知っていました。今になって思えば田舎の小さな学校だったので、児童の兄弟関係まで把握出来たのでしょうが、当時の自分にとってそれが何だか嬉しくて。そして安心したものです。

A先生の授業はいつも全力で面白かった。先生の授業のおかげで勉強が好きになれたんだと今でも思っています。当時友だちと、「勉強って楽しい!」みたいなことを話していたところ、先生は心から嬉しそうな表情をしていましたね。というか当時の自分どんだけ純粋無垢なんだ。そんな会話する小学生います?笑

そしてA先生は『三十路』という言葉への反応速度が異常でした。年齢がちょうど30歳くらいだったんですね。小学生がどこで三十路なんて言葉を覚えたのか疑問でもあるのですが。先生に三十路と言うと新幹線並みの速度で反応してくれるので私たちは面白くてたくさん言葉の槍を放っていました。先生ごめんなさい。

ある日、友だちがうがい用のイソジンが無くなったので「A先生、イソジン無くなりました。」と報告すると「三十路⁉︎」という先生の勘違い新幹線が通り過ぎていきました。いや先生、気にしすぎですから。

そんなA先生は私が小学2年生だった頃に産休に入られました。ある朝違う先生が教室に入ってきたので何事かと思ったのですが、その後先生が身重であると知らされました。

その間、違う先生が担任になりました。最初の先生は数ヶ月だけ。次の先生は丸1年担任としてお世話になりました。二人とも若い男の先生でした。

A先生が出産するタイミングで、ちょうど同じ病院に行くことがあったので母が先生の病室に行ってみようかと提案しました。

病室のA先生は旦那さんと一緒に迎えてくれました。嬉しそうな笑顔で。病院で見る先生は学校で見る先生とはちょっと違って見えて、何だか照れくさかったのを覚えています。旦那さんは確か中学校の先生だったと記憶しています。

A先生は私が4年生だった頃に復帰されて、その年度で異動となりました。先生がその後どこの学校に行ったのか覚えていません。当時の年齢から考えると今は40代後半だと思います。どこかの学校で教壇に立っているのでしょうか。今でもたまに会いたいなと思います。

もし会えたら何から話そうかな。そんなこと考えたりします。

そんなA先生は確か福島県の浜通り出身だったはず。震災の影響はなかっただろうか。そんなことも考えてしまいます。

次に中学2・3年生だったときの担任だったS先生。

先生の第一印象はハッキリ言って最悪です。

まず見た目が完全にヤクザです。怖い。睨んでましたもん、私たちのこと。そして話し方が不機嫌そうでした。

まじかよ、この人担任なの??

中学2年の春。1学期の始業式の日に感じた絶望は今でも忘れません。

しかしその後すぐ、絶望が杞憂であることが分かりました。

S先生、実は誰よりも生徒想いでとても優しい先生でした。聞くとかなりの人見知りらしく、その影響で睨んでいた(?)そうです。先生、怖かったですよ。

私の印象にもっとも残っているエピソードは合唱コンクールです。中学の合唱コンクールが色濃い思い出として残っている方は多いのではないでしょうか。私もそのひとりなのですが、先生は合唱コンクールを通して団結の力を教えてくれました。

本気で叱ってくれました。本気で褒めてくれました。本気で向き合ってくれました。先生はいつも全力で応援してくれました。みんなの気持ちがバラバラになりそうなところを先生がひとつひとつ繋ぎ合わせてくれました。

当時、私たちの学校では3年生が最優秀賞と優秀賞を受賞するのがお決まりのようになっていました。

しかし私たちは先生のご指導のおかげで2年生で最優秀賞を受賞することができました。学校創立以来の快挙でした。

3年の先輩方には若干のイヤミを言われましたが、そんなことどうでもいいくらい嬉しかった。何より、熱心に指導してくれた先生に最優秀賞をプレゼントすることができて本当によかった。

合唱で強くなった私たちのクラスの団結力は卒業まで変わらず続きました。先生への尊敬とともに。

3年生の時の合唱コンクールでも最優秀賞を受賞し、見事に連覇を成し遂げました。あの嬉しさ、達成感は先生が教えてくれたことのひとつです。

S先生は何でも包み隠さず話してくれる人でした。

先生がどうしてこの学校に来たのか。普通だったら”大人の事情”で隠してしまいそうなことも、先生は話してくれました。

先生は前の学校で病気になったのだそうです。市街地の学校で、多忙な毎日と悪化する病状。そんな姿を見かねた我が校の教頭先生がお声がけしたそうです。この学校は人も環境も穏やかだと。その教頭先生とS先生は旧知の中だったそうです。

我が校に赴任してからは病気も良くなり、すっかり居心地が良くなったS先生は5年間という長い間勤務されました。私たちが高校を卒業するタイミングで別の学校に異動することとなり、高校卒業の報告と共に挨拶に行きました。

その時の先生の穏やかな表情と、まだ異動したくないなという雰囲気はとても柔らかいものでした。あの5年前の春とは、全く違う先生の姿がありました。

ちなみに離任式にもお邪魔したのですが、その時に撮った私とのツーショット写真は今でもiPhoneのカメラロールに残っています。

格好が完全にヤクザでした。笑

就職してから、次の赴任先が割と近くだったので、私の職場に仕事で来てくれることもありました。先生に社会人姿を見せられたのは嬉しかった。その後、成人式でお会いしたのが最後です。

3人目は高校3年生の時の担任、K先生。

先生は2年生まで副担任として私たちの学年についていましたが、私自身は授業を受けたことも話したこともありませんでした。

高校3年生という将来を左右する学年。K先生が担任になったことで、私の人生は大きく動きました。

先生はとてもおしゃれで、髪型や服装がとても素敵な女性でした。穏やかでいながらどこか自分の世界を持っていて、いつも凛としている印象でした。

そんな先生が尊敬していたのが指揮者の西本智実。確かに雰囲気が似ている気がします。

私は高校3年生まで進路に迷っていました。もうこれ以上は勉強したくないし、両親に金銭的な迷惑をかけるわけにはいかないと考えていました。これといってやりたいこともないので、進路希望には適当に『就職』と記載していました。

そんな中で行われた三者面談。夏休みが差し迫ったある日の放課後。いつもの教室に、私と父とK先生。

この時には学校に来る求人の中から適当に選んで就職しようと決めていました。しかし先生は思いもしないことを言い出したのです。

「この試験、受けてみたら?」

それは、私が幼い頃から憧れていた職業でした。(すみません、現職なので職名は伏せます)

いつどこで将来の夢を話したのか覚えていないのですが、この頃にはとっくに諦めていた仕事でした。

試験倍率は毎年二桁が当たり前、知識も体力も必要。将来の夢ランキングに毎年ランクインする仕事です(人生唯一の自慢です笑)。就職してしまえば何てことはないのですが、その時の自分にはとても遠い世界であるような気がしました。

当時の自分は何もかもが上手く行かず(今でも上手く行かないですが)、部活はすぐに辞め放課後はただプラプラもせず、一目散に帰宅。青春皆無な、おおよそ高校生らしからぬ生活を送っていました。

そんな自分にこの人は何という提案をしているのだろう。しかし先生は本気のようでした。夏休みは10時間くらい勉強してねと爽やかに言い切り、私の発言など何処吹く風といった様子。結局そのまま面談は終了しました。

うわー、まじで試験受けるの?

私の頭の中はもはや大混乱。だって、ついさっきまで適当に就職するつもりだったのですから。

それからというもの、私は勉強に明け暮れました。私の学校は自称”進学高”でしたので就職に対するサポートはお世辞にも手厚いとは言えません。もはや孤独との戦いです。ひたすら過去問と参考書。

9月に1次試験、11月に2次試験がありました。9月の筆記による1次試験を何とかパスして迎えた2次試験。2次では面接や小論文の試験がありました。面接練習などほとんどせずに臨んだので、面接が終わっても手応えはゼロ。これは落ちただろうな、卒業したらどうしよう…。そんなこと考えながら家路につきました。

試験結果はまさかの『合格』

最初に結果を聞いた時は驚きすぎて言葉も出ませんでした。

ほんの数ヶ月前まで適当な人生を歩もうとしていた高校3年生にとって、人生が大きく動いた瞬間でした。

この結果を先生に報告した時の、”してやったり顔”。この人すげぇと思いました。何の取り柄もない、ひとりの男子高校生の人生を変えてしまったのですから。

先生には、何もかもお見通しだったのでしょうか?私の性格、成績等から考察して何とかなるだろうと判断したのでしょうか?どこまで計算していたかは分かりませんが、恐ろしい先生ですよね。

社会人になって、たまに辛い時、先生の話を思い出します。

それは、K先生が長く教師という仕事を続けてきたコツのようなお話でした。先生自身も先輩の先生に教えていただいたそうです。

とりあえず明日だけ頑張ってみる。すると次の日も何とかなる。すると1週間は何とかなる。そしたらそれを1ヶ月続けてみる。1ヶ月続けば1年続く。1年続けば5年続けられる。5年大丈夫だったら10年続けられる。

卒業式の後、最後のホームルームで話してくれました。それから丸9年経った今、この言葉に支えられた時がたくさんありました。

あと1年踏ん張れば勤続10年になります。その先のことは分からないけれど、ダメダメな自分が同じ仕事を10年間も続けられたことは、先生に感謝しなければいけませんね。

紹介した3人の先生とは今現在、交流がありません。学生から社会人になって時間が経ってしまったので、もう私のことなど覚えていないと思います。

しかし、間違いなく言えることは、御三方が私の人生の一部を作ってくれたということです。

そこには、ありったけの感謝しかありません。

私が今、このように社会人として生活できているのも先生方のおかげです。立派ではないし、決して上手くいっている人生ではありませんが。ガタガタの中、何とか生きています。

本当にありがとうございました。

このnoteが何かしらの間違いで先生方に届くことがあれば、少し恥ずかしいですが、嬉しいです。

いつか、お会いできることを信じています。

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