話を聞いてもらっても死にたい気持ちは変わらない
Googleで「死にたい」と検索すると、厚生労働省の「こころの健康相談統一ダイヤル」がまず最初にヒットします。僕もかつて一回かけてみたところです。
回線がパンパンで繋がらなかったところを見ると、僕みたいな毎日死にたいと思ってる人が何人もこの世にいるんだなと感じます。
なんという世の中なんだろう。
いや、逆説的に考えれば狂ってるのは僕らのほうか。ともなれば、なんという欠陥人間を製造してしまったんだと親たちにでも言えばいいのでしょうか。親たちは僕らを選んで生んだわけでもないのにね。
何も解決しないのは分かっています。おかしいのは自分。責任も自分。全部自分のせい。苦しいなぁ。生まれてこなければよかったのにと毎日思う日々が続きます。よくもこの何十年間、諦め続けながらも生きることをしたもんだと我ながら呆れてきました。
最近思うことがあります。生きることが辛くてこうしてnoteにモノを書いたりとか、LINEで友達に「早く死にたい」と書いたりしている自分があまりに哀れで情けないことを。
こんなことを言って僕は何を相手に求めているのでしょうか。言われた相手はどう思うのでしょうか。実は分かってるくせに、僕はただただキーボードを打ち続けています。
言われた相手からすれば、僕が死ねば寝覚めが悪いだろうし思うこともあるだろうから「生きてくれ」と言わざるをえません。もしくは「そうかー、大変だなぁ」と右とも左ともつかない回答をします。
僕は何にも得られず、相手には不快な気持ちを与えています。そして僕は今日も苦しみながら生きます。
この行為がとんでもなく無意味なことを僕は知っているのに、毎日続けている自分が、そう、まさに哀れで情けない。
ぶつける相手が心療内科医だろうが、カウンセラーだろうが、友達だろうが、「生きてほしい」と言われ、仕方なしに生きる結論をだしてみたところで結局僕が苦しみ続ける辛さは変わらないのに。
ああ、そうか。決断できない僕が甘えているんでしょうかね。それとも誰かに依存、寄生したいだけなのでしょうか。いずれにせよ、誰のプラスにもならないロクでもないクソみそなリアルです。
僕が検索した「死にたい」という言葉は、もはや誰かに聞いてほしいものではなくて本当に簡単に物事を成しえる手法を端的に教えてほしいだけです。それも勇気がなくとも出来る手法。ボタンひとつで僕の人生がフッとなくなるやり方だけでいいんですよ。
練炭を買って死のうと思って最後に親に電話をしたあの日。「さっさと死んでしまいなさい」といわれたのはもう10年も前のことか。なぜ、あの時実行しなかったのか。目の前まできてたのに。
その答えは今でも出ていません。
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