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「忘れてもいいよ」の救い


中学2年生の時、部活の先輩が中学校を卒業していく姿をよく覚えている。

中学に入学して初めて出来た先輩という存在。入部当初から可愛がってくれた。卒業生を廊下で見送っていた時、私を見つけた先輩は最後に「忘れないでね」と私に言った。

以来、その先輩とは一度も会っていない。当時は携帯電話を持っていなかったから、連絡先も交換しなかった。今何をしているかも分からないし、街中ですれ違っていてもお互い気付かないだろう。
それでも私はなぜかあの時の「忘れないでね」を、10年以上経った今でも覚えている。先輩が私を覚えているかは分からない。

記憶とともに生きるということ

生きていると、【(自分が)忘れたくない】あるいは【(他者に)忘れて欲しくない】と願う場面が多い。
大切な思い出、長く過ごした場所、友人とのやりとり、大好きだった人、子供の頃の記憶、印象的な体験、良い作品に巡り合えた時の感情。勉強して仕入れた知識なども、一応。
これらのほとんどは、今後の人生の糧にできるような記憶である。私も、30年弱の人生で積もったそれらを糧に生きてきたと思う。

中には、どうしようもなく【忘れられない】記憶もある。
記憶に焼き付いて離れない風景や言葉。これらは全てが良い記憶とは限らない。
一生忘れられないような強烈な印象には、深く傷付いた体験や、後から振り返ると羞恥心に呑まれるような自分の言動も入り込んでしまう。
それらに囚われて苦しさを感じることは、誰にでもあると思う。早く忘れ去ってしまいたいと常々思いつつも、ふとしたきっかけで顔を覗かせてくるのだ。

Riseという曲に出会った。

CRCK/LCKS(クラックラックス)の『Temporary vol.2』の最後に収録されている。別れをモチーフにしている曲だが、過去を追いながらも不思議とあたたかく、空白の後に押し寄せるアウトロに感情が揺さぶられる。

後半の歌詞に「忘れてもいいよ」というフレーズがある。
初めて聴いた時、その一節に「救われた」と確かに感じた。その時はなぜそう感じたのかは分からなかった。

MVではちょうど、2人が別れるシーンと重なるように流れる。
大切な人との思い出を忘れたいわけがないのに、
忘れて欲しくないと相手に願ってもおかしくないのに、
なぜ「忘れてもいい」?

自分の「救われた」という感覚も分からないまま、それでもなぜか、どこまでも優しい歌詞だなと思えた。

【忘れること】との攻防

後に少しずつその感覚を自問自答する中していくと、おそらく私は【忘れること】に怯えて生きていたようだった。

人生を過ごせば過ごすほど、こぼれ落ちてしまう記憶がある。
ほとんどの人間は、全てを抱えていられるほど器用ではない。新たな記憶を迎え入れるたびに、古いものは徐々に端に追いやられて、前触れなくいつの間にか消えていく。無論私もそう。

ただ、嫌な記憶に限ってこぼれ落ちずに居座っていたりする。
本心では忘れてしまいたくても、「今後の自分のバネに!」「成長する機会に!」「もう繰り返さないように!」といった理性の声が、念の為にと繋ぎ止めて離さない。
私にとって、この攻防は、生きるということに感じていた辛さの一つであったようだ。

これまで生きてきて、「忘れてもいいよ」と言われたことはあっただろうか。

攻防から離脱することへの肯定

「忘れないで」は、中学のあの先輩をはじめ、色んな他者や世間の声からも言われてきた。自分で自分に言い聞かせている言葉でもある。

あらゆる記憶を手放すことが怖かったから、「忘れてもいいか」と意識的に手を離すことなんて、発想すらなかった。

嫌だった感情を無理に美化して残しておかなくてもいい。
「全て覚えていたい」と力んだところで、人間はままならない。
同じように、他者の記憶に残りたいと願うのも、いつまで叶うかどうかは分からない。
他者にとって、私の関わる記憶は手放したい存在かもしれない。その人が手放したいと願うなら、その通りになった方が良い。

きっと、【忘れてもいい】記憶もあるのだ。
そう思うだけで、幾分か人生の見え方が変わった気がしている。


もう会うことのないであろう先輩の「忘れないでね」も、いつか記憶からこぼれ落ちると思う。
その過程に抗うことはないと思うが、こうして記事にして残したあたり、あの記憶はもう少しだけ繋ぎ止めておきたい記憶なのかもしれない。

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