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果たして人間は邪悪なのだろうか:ふたつの絵本から考える【前編】


挿絵から、うちの子(ロングコート)に似せたつもりが、なんかホラーなダックスフンド…

人間とは、邪悪なのでしょうか。

 人間とは、邪悪なのでしょうか。これは私たちが人間である以上、自己反省的にこのように考える瞬間があるかもしれません。もちろん、そんなこと考えたことがない、という方もいらっしゃると思いますし、考えたことがあるから良い、ないから悪い、ということでもありません。とはいえ、人間が悪なのか善なのかという問題は、例えば古くから、性悪説・性善説として、考えられてきたことでもあります。
 すなわち、人間は生まれつき、悪なのか善なのか、です。

 そのような意味においては、たとえば旧約聖書における人間の起源、アダムとエバ(イブ)の失楽園(=楽園追放)は、まさに一考に値するものである、ともいえるでしょうか。

 私は特定の信仰を持っておりませんが、保育園はキリスト教系で、物心つく前から毎朝登園するとピエタ像(十字架から降ろされたキリストを抱くマリア像)とステンドグラスがあり、先生は修道服を着たシスターたち、給食の前にはお祈り、歌うのは讃美歌、という少し特殊な環境でした。その後はドイツで過ごした期間もあり、最初の大学もミッション系で、必修科目として聖書を学んだり、お昼には敷地内のチャペルで礼拝があるような環境でした。おそらくキリスト教に対する親しみというものが経験としてある方かなとは思いますが、寺社仏閣が好きでよくお詣りもします。強いて言えばアミニズムかなと思いますが、あくまで教養の範囲で、哲学分野の研究者が知りうる限り、考えうる限りのことから考えてみます。ですので、信仰をお持ちの方からすれば不届きなものであるとは思いますが、学術的な観点からは、そのように考える者もいるのだな、とご容赦いただければと思います。

 アダムとエバ(イブ)は、エデンでは不死であり、食べ物にも困らず、この世界の喜びしかなく、そこはまさに楽園として、ふたりは永遠に幸福に暮らすことができるはずでした。しかし、ふたりは禁じられた知恵の実(西洋の絵画を紐解くと、元来は無花果として描かれてもいますが、一般的にはりんごが定説のようです)を、かみさまとの約束を破り、食べてしまいます。約束を破ったためエデンを追放されることになりますが、ここにも、さまざまな解釈があり、蛇に唆(そその)されたにとどまらず、エバがアダムを唆したというもの(そのせいで女性の方が罪が重く、大変な思いをして子を産むことになった、とも)。いずれにせよ、ここには、失楽園の後、いかにして悪魔の囁きを退けることが重要であるかという教訓もまた、含まれているように思われます。今なお「悪魔の囁き」によって、人は堕落するのです。
 私がここで気になるのは、性悪説・性善説を説くのであれば、エデンで罪を犯したその根底には、いったいどちらがあるのだろうな、ということです。もちろん、「かみさまがふたりをお創りになった」わけですから、性悪説のわけはないのでしょうが、それでも、たとえ唆されたのだとしても、かみさまとの約束を破ることができた根底にある人間性とはどちらだったのだろう、と素朴に思ったりもします。

※以下、絵本の内容や結末にも言及しますため、まだ読んでいない方で知りたくない方は、ここで一旦、このページを閉じていただければと思います。その時は、またぜひ、絵本を読んだら、続きにいらしてくださいね。

【Side A】「ブレーメンのおんがくたい」:邪悪な人間しか登場しない物語の痛快さ


ブレーメンのおんがくたい(福音館書店)

 さて、まずはグリム童話「ブレーメンのおんがくたい」を見てみましょう。私がこの絵本を大好きなのは、おそらく(古い記憶に見覚えがある気がするため)子供の頃に枕元にあった絵本ではないかと思っているのですが、改めて読んでみると、この物語の中には、邪悪な人間しか出てこないのです。グリム童話ならではの世界観・人間観かもしれません。

 物語は、動物たちと、人間の間で起こる、動物たちの悲しみから始まります。ページをめくると、真っ先に目に飛び込んでくるのは、涙をたくさん流している ろば なのです…。

 ろば は「これまでながいとしつき、しんぼうづよく むぎのふくろを すいしゃごやへ はこんでいました。けれども、いまでは からだがよわって、だんだん しごとが できなくなってきました。そこで かいぬしは、もうこれいじょう ろばに えさをやることはないと おもいました。すると ろばは、かざむきが わるくなったのに きがついて、いえをとびだし、ブレーメンのまちをめざして でかけました。そこへいけば、まちのおんがくたいに やとってもらえると おもったからです。」

!!!

 よくぞ「かざむき」に気づいて、逃げ出してくれました。そして、ひどい人間でごめんね、と、自分も人間であることに、胸が痛みます。
 ハラハラしながらページをめくると、ろば はブレーメンへの道中、同じような理由で泣いている、いぬ(りょうけん)に出逢います。ふたりが一緒にブレーメンを目指し歩き出すと、再び、同じような理由で泣いている、ねこに出逢います。ねこも一緒にさらに先へ進むと、同じような理由で泣いている、おんどりに出逢います。
 みんな、歳をとって働けなくなったという理由や、次の日の人間のご馳走のために、人間が自分を殺そうとしていることに気づいたのです。
 その道中、どろぼうたちがいる家を見つけた「四にんのなかまたち」は、どろぼうたちを追い出し、その家で仲良く暮らします。

人間に奪われたものを、人間から奪い返す権利

 ここで、家は何を象徴しているか考えてみました。ろば、いぬ、ねこ、おんどりは、それぞれ人間に「家畜」「猟犬」「ねずみとり」「スープの材料」として、人間の都合で重宝されたり、見捨てられたりした動物たちであるといえます。とりわけ、ろば、いぬ、ねこに関しては、年老いてかつてのような働きができなくなったことで、いわば人間が勝手に見限り、食事を与えず、あるいは、いぬに至っては「ぶちころそうとされたところを逃げてきた」といいます…(よくぞ逃げてくれました…)。
 彼らはこれまで与えられてきた食事を、家を、住処を、人間の都合で取り上げられてしまい、その命を奪われそうになったのです。どろぼうが占拠していた家を奪い、自分たちの家にしたことは、見方を変えれば、人間に奪われたものを人間から奪い返すという正当な権利、であるともいえます。
 この物語を読んで、「人間(どろぼう)がかわいそう」、という気持ちがひとつもよぎらないことも、もちろんどろぼうという設定ゆえではあるのですが、すごいなとおもいます。かわいそうなのは動物たちであり、人間は惨(むご)いもの、無慈悲なものとして、あるいは愚かなものとして、絵本の中では終始一貫、見事に描かれています。

家畜とは何であるのか

 私はこの「ブレーメンのおんがくたい」の絵本を読むとき、ニーチェのとある逸話を思い出さずにはいられません。諸説ありますが(精神を病んでいたともいわれる)晩年のニーチェがある日、広場で馬車を引く馬に駆け寄り、彼らを抱いて号泣した…というものです。私はこの話を知った時、ニーチェの気持ちがわかるような気がしました。同時に、わかってはまずいのではないか、という気持ちがよぎったのも事実ですが…。私がある意味でニーチェをとても信頼しているのは、そのような感受性を持っていた人が、あのような哲学を構想していたこと、その果てに見つめていたものが、人間のみならず命あるもの、かなしみを知るものの救済であったのではないか、と信じることができるからかもしれません。
 人間が動物を、共生共存というだけでなく、長い歴史の中で利用してきたこと。ときに人間の望むように繁殖させ、交配させ、変化させてきたこと。これは何も、非日常的な話ではありません。
 例えば昨今の感染症拡大防止の状況下で、ワクチンの実用化の裏で飛び交った「超迅速審査」という言葉。私も医学部に勤務していたとき、大学病院のIRB委員(治験審査委員会委員)の専門外委員としてつとめさせていただいたことがありますが、非常に考えさせられる貴重な経験をさせていただきました。どのような状況下であれ、治験審査というものの本質と必然性を鑑みるとき、「超迅速審査」については基本的には否定派です。あれだけのプロセスを踏んでなお、安全性の検証と確保に努めている手続きに、迅速などという概念は本来的に矛盾であるということを、通常の審査経験から感じるためです。守秘義務がありますので多くを語ることはできませんが、一般論として、ひとつの治験に対し平均して10〜20cmの厚みのあるファイルが作成され、そのすべてに目を通し、疑念を払拭し、被験者の安全性を守ることは、なくてはならない手順であるからです。経過の報告と、継続の可否についても同様です。
 そして治験のためのプロセスの中には動物を用いた実験があり、事前資料に目を通す際、いつも非常につらい気持ちになったことを今も覚えています。複数の種の動物を、段階を追って実験していることがわかります。医学部棟には動物実験室があり、勤務先までの移動に階段を使うと、その部屋の前を通らなくてはならないため、いつも目を伏せていた記憶があります。なぜ動物実験が必要なのだろうか。私にはその問いに答えることはできませんが、自分の生活の中では、可能な限り、動物実験をしていない製品を好んで選ぶようにしています(WELEDA ヴェレダ や THE BODY SHOP などが有名ですね)。そして願わくば、動物実験をしていないことを明示するまでもなくそれらの表記が不要であることがスタンダードになる時代が来ることを願っています。
 私が家族として迎えた犬たちは、まさにこの絵本に描かれているように見えるダックスフンドの仲間、ドイツの狩猟犬の血統をもつ子たちです。彼らの愛らしい容姿、しかし短足と胴の長さは、巣穴にもぐらせるためにつくりだしたもの、ある意味では「奇形(本来の状態と異なるものという意味において)」なのです。その弊害で、彼らはヘルニアになりやすいですし、事実、ヘルニアになってしまった子もいます。(迅速に適切な治療をして治癒してはいますが、本当は日常的に痛いのではないか、と気がかりなのも事実です。ヘルニアになってしまった時のことは、今も思い出します。)
 私に唯一できることは、彼らの命ある限り、彼らを大切に生きることだけです。賢く、勇敢で、ときにはいたずら好きで、ちょっぴり頑固ですが、甘えん坊で、私のことを愛してくれる彼らのまっすぐな愛情は、いったいどこから溢れてくるのか。彼らは(愛というものが自分達の至上命題であるかのような)人間であるはずの私以上に、愛に溢れ、愛することを誰に教わらずとも知っている。彼らよりも私の方が愛というものを知らないことを痛感しますし、ほんとうに不思議でなりません。私を枕に(幸福な重み…笑)みんなでお昼寝をする休日などは、人生最高の瞬間のひとつでもあります。私は人間ですが、いつも、人間よりも動物の方が完全で、そして優れていると思わずにはいられません。
 そんな私ですから、「ブレーメンのおんがくたい」の物語が痛快に感じるのも、もしかしたら当然なのかもしれません。動物に比べて、人間は邪悪である。そのことをこんなにも見事に示してくれる物語はそうはないように思えてなりません。
 今すぐには難しいであろうことは分かってはいますが、私は世界から「家畜」、あるいは人間による動物の「利用」がなくなればいいな、と、今はまだ漠然とした願いでしかありませんが、そのように考える根源にある想いは大切にしたいと思っています。

動物ではなく「〜」なら良いのか:生命の線引きにおけるロジックの不徹底について

 これは何も「動物」に限らず、あらゆる生命に関わることです。私は正直なところ、人間が繁殖させたからといって昆虫なら良いのか、といえば、そうとも思えません。近年流行した「昆虫食が未来を救う」、という考えの中には、生命の線引き、全てを徹底して思考し抜いたものとしての思想を感じることが難しいと考えています。もちろんそこには、二酸化炭素の排出や温暖化という観点から、環境負荷を与えないものとしての利点が見出されているわけなのでしょうが、そのことと、仮に「脱家畜」の思想が接点を持ちうるのだとすれば、「動物ではないから昆虫なら良い」というロジックは、決して両立しないように思います。私たちは食糧問題についても、共生学的な視点から、より深く、より徹底して、考えなければならないのだと痛感します。(思いつくままに走り書きをしていると、授業の脱線話のようになってしまうことに気づきましたが、絵本のお話からは少し逸れましたので、このお話の続きは、また、いずれ…できたらいいなと思います。)

前編終わり・後編に続く


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