邪道でも逃げでも、自分の道ならそれでいい
やまけんさんのLINE部屋のzoom相談会議事録を読んで、今まで自分のストッパーになっていたものに気づきました。
相談会の中で、数値化できるもので勝負するのではなく、異質な個性で勝負するのが大事という話がありました。(例えばチョコならおいしさだけで勝負するのではなく、それ以外の異質な個性的な魅力が必要。)
どうも私は、今までこの点に腹落ちしていなかったようです。チョコでいうおいしさ、つまり建築でいう空間の美しさや雰囲気、のみで勝負すべきという考えが強くあって、でもそれだけに拘って設計をすすめてもあまりうまくいかない。 建築にかかわる他のこと(人と物質の関係性とか、社会的な建築の在り方など)にも興味があるのですが、それを取り入れるのは建築の美しさを追求することから逃げているような気がして、あえてそれらを取り入れずに設計しようとしていた。
それは自分の育った環境に影響を受けていたからです。両親は音楽が好きで私も妹も小さいころからピアノを習っていました。両親は音楽以外のことはあまり評価せず、音楽に対しては口に出してはっきりと評価をしてきました。その評価軸は、「その人にセンス・才能があるかどうか」の一点のみでした。例えばテレビで誰かが歌を歌っていても、その歌のこういうところがいいとかそういう話はなく、「この人はセンスがあるね、リズム感がばつぐん。」といった会話がなされていました。 また、音楽で自分を表現するなんておこがましい、それは音楽や作曲家への冒涜だ、才能がある人はどんな曲をひいてもうまいし、変な解釈をしないで正統派の弾き方で弾くだけで素晴らしい演奏ができるのだ、といった考えを持っていました。 なので、例えばバッハを独自の解釈で弾いたグレン・グールドは我が家では邪道と言われていましたし、バッハの曲をチェンバロ(バッハの生きた時代に使われていた楽器)でかっちりと演奏するグスタフ・レオンハルトを高く評価していました。
私はこの価値観の中にあって、しかも両親から音楽の才能はないと小さいころからいわれていました。さらに幼少期の自分にはつらいことに、妹は音楽の才能がありました。そのため、自分は才能のない人間だということが、今でも大きな劣等感になっています。 このことに縛られるのが嫌だったので、自分から好きになった建築の世界に進んだはずだったのですが、肝心の「自分には才能がない」といった劣等感は抱えたままでした。そのため、自分に才能があってほしいと、今でも願ってしまうのです。音楽から建築へとフィールドがかわってもなお、異質性や個性を表現してしまったら、才能がない人の仕事になってしまうとの怯えから、正統派であろうとしてしまいます。
ここまで考えて分かったことが二つあります。
一つは、「才能」に拘らず、現実をみてすっぱりと「才能」をあきらめると、視野が開けるだろうということ。「才能」にもいろいろあります。それは今回考えるきっかけになったやまけんさんも、いわれていることです。私の両親はいろいろな才能のうちの一種類を評価しており、私はそこに当てはまっていなかった。誰かに評価される「才能」があることを証明するために生きるより、誰に評価されなくても自分が好きなことを続けていくほうが幸せです。
二つ目は、両親の音楽や芸術への評価の軸が、あまり現代的とはいえないということです。どちらかというと近代的、あるいは保守的、封建的とさえいえるかもしれません。すべての人が現代的な芸術観を持っている必要はないですし、現代的なものが前時代的なものに対して優れているとも思いません。しかし、私たちが生きているのは現代なので、実家を一歩でれば現代的な芸術観を持っている人はたくさんいます。 私はグレン・グールドも好きで聞きますが、これを実家でいうと、やっぱりこの子は聴くものもセンスないわね、という空気になるのですが、実家を一歩出たらグレン・グールドいいよね!という人はたくさんいます。現代的芸術観を持っていることは、センスのなさとは無関係です。 さらにいえば、最近気づいたのですが私の実家の家族は、芸術観以外もわりと保守的かもしれません。(父は家事はなにもできない、ただしあそこを掃除しろなど指示はしてくる。母は文句をいいながらも改善してほしいわけではなく、文句をいいながら寄り添うことが結婚した自分の人生として最善と考えている。妹は両親にとって可愛く、役に立ち(ご飯をつくるのがうまいのです)、癒しの存在となっている。)この中で私は大学進学と同時に実家を出てから、ほとんど実家には寄り付きませんでした。もちろん一年に数回かは帰りますし、大切にしてもらっているし愛情も感じますが、なんとなくずっと実家をベースに生活することに違和感があります。 つまり、今このノートに書いているモヤモヤは、「私は実家の価値観と合わない」、ただそれだけのこととして片づけることもできます。
とにかく、私のストッパーは、正統派であろうとすることだとわかりました。正統派という外からの枠にあてはまるように生きていくのはしんどいですし、正統派だけが価値あるわけではありません。 ストッパーに気づけたので、意識して外していきます。
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