見出し画像

小さい虫はお好き?

 こいつはとても小さい。米粒の半分の半分くらいの大きさで、透けて見えそうな薄い羽根を出したり収めたりしている。全身真っ黒のハエの子供。もしかすると、小さすぎて黒色に見えているだけで、拡大すると、まるで美しい食欲のそそるような鮮やかな鯖の鱗みたいな色彩をその小さな体に抱えているのかもしれない。

 しかしながら、こいつは人間がその営みを一時的に中断して、じっと観察したりするまでもない虫なのだ。おそらくこういった傾向の虫は、私たちが健康的な目を保持していないとそもそも見えないし、仮に見えたとしても、わざわざ彼を主人公にした文章をかつて人間の文明は書き残したりしなかった。それどころか彼らにとっては初の活字化となることだろう。(私は今しがたこの小さな虫を彼と呼んだが、本当にあなたとか彼とかで呼び合える仲だったらどんなに幸福だっただろう!)

 ではなぜ、この文書において私がそんなことをしているのか。それは私は虫がとても大嫌いだからだ。そう、とても大嫌いだ。同じように虫だって私のことが大嫌いだし、人生のタイミングさえ合えば、この人間を殺してやりたいと思っていることだろう。あまり長くなってもあれなので、一言だけ申し上げておくと、私は虫を殺したいなどと思ったことはない。でも、元気にその辺を飛び回ったり、ベランダの葉っぱをムシャムシャ食べている姿も見たくない。かといって潰れて死んでいる姿も見たくない。ただ本当に姿かたち全て消えてほしいと思うだけだ。

だから私にはこの虫を無視できなかった。それどころか、まじまじと弱点を観察してやった。

 日曜日の朝の11時を過ぎた時刻、私は自室のソファー(氷のように固く冷たく、そして小さい)に仰向けになり、バックナンバーの文芸雑誌を読んでいた。今の時期は梅雨真只中だが、この日は灰色の厚雲から乾いた「日陽り」がところどころ差していて、洗濯を営む主婦や主夫にとっては素晴らしい一日になりそうだった。部屋干ししたシャツの嫌な匂いから解放された私は、網戸から届けられる午前の強風に持ってかれないように雑誌のページをいつもより強く指でつかんで、気持ち良く連載小説を読み進めていた。

 そこに突然一匹の虫が、雑誌のとある1ページ、その鮮やかな文体の上にピタッと止まった。私は、あっ虫だ。と思った。虫は足踏みするようにして紙の地面の感触を確かめると、文脈を不規則な順番で歩き進めた。その脚は繊維のように細く、気持ちが悪かった。

 私はここ最近、虫に対しては落ち着いて大人の対応を見せるようにしている。特に友達の前とかでは、こんなところに可愛い虫がいるよと言わんばかりの笑顔を見せたりもする。これは私の教訓だが、あなたは間違えても友達の前で虫を怖がったりしては絶対にいけない。その数分後には、とびきりいたずらな笑顔をしたあなたの友達が、あなた宛てに虫(カナブンとかその辺の手ごろな昆虫だ)をお届けすることだろう。

 そんなことも経験して、今回もいかにも自然な笑顔を作ってみせ、その黒い小さな虫を眺めやった。それに付け加えてフフフとも言ってみたりした。虫はそんなこといざ知らず、文字と文字を自由気ままに行ったり来たりしている。

 昔聞いたことがあるのは、時として無垢で麗しい少年や少女が、その好奇心から根こそぎ命を奪う凶悪犯になるように、蟻の大群を指で襲うことや、蟻の巣を巧妙な洪水の罠に陥れたとしても、蟻たちにはなぜそんなことが起こりえたのか、到底理解することはできないということだ。この可愛い虫にとっても、まさか自分が文学という人間の何千年にもわたる学問の積層の上に腰を下ろしているなどとは思いもしないだろう。そしてまた、人間である私が、その奥深さを理解することも到底及ばぬ話なのであるということも言っておくべきだろう。

 このピリオドみたいな虫は、その体躯の真下に、やはりピリオドみたいな影を映していた。その2つの斑点をずっと観察していると、にわかに信じがたいのだが、本当に可愛らしく思えてしまったことをここで告白する。しかしながら、ふとこの虫が、ページを抑えている私の指にトコトコと歩み寄ったときは、私もジリジリとその親指を端っこへと移動させたのだった。

 彼と私の関係が緊迫状態から徐々に、観察対象へ、そして少ないながらも愛着へと移行していっておよそ1分が経った頃である。この私の儚い虫の子供が、雑誌の薄暗い谷間部分へと歩を進めた時、私はこの小さな虫の生命をいつでも殺せることにふと気が付いた。この瞬間にパタンと雑誌を閉じてしまえばいとも簡単に潰れてしまって、そのシミだけが、文脈に懲り深く残されることに違いない。あぁなんということだろう!体の大小が命の重大さを示すなんてことはあっていいものだろうか!!なんという人間の傲慢、無責任さだろうか。そしてこの命の重さという命題を議論した人間はどれだけいるのかしら!こうなっては、ほかの人間に殺されるのが目に見えてしまっている。私は保護してやろうと思った。どこか空き瓶があったかな、最悪ペットボトルでも良い。私が彼を生かすのだ。その瞬間、彼は私の右耳に触れるか触れないかといったところを通過して目にもとまらぬ速度で飛び立った。私はその小さな虫が私に反抗してきたのだと思って、一気に鳥肌が立った。内臓という内臓から冷汗が、私の皮膚のすぐ下をほとばしった。そしてそれはすぐに汗となって、潮のように引いていった。

 その虫が、例によって強風で飛ばされたのか、それとも、コイツなりの「限りある自由」を奪われそうになったことを察知したのかは分からない。とにかく私は、「クソ。これだから虫は」と言ったか、思った。

この記事が参加している募集

スキしてみて