#エッセイ 『自分たちで変わっていくには・・』

 私たちの国の歴史を簡単にひも解いてみると、どうやら私たち日本人は自らの意思で国や組織の体制又は国民で共有すべき物の考え方を変えるという事が苦手な民族のようです。日本の近現代史の流れをザックリ見ても、まず幕末の黒船来航で鎖国を取りやめ封建制から資本主義へ、そして第二次世界大戦に敗れて全体主義(軍国主義)から民主主義へ体制を変えています。これらは少なくとも私たち国民の側から出た要望ではありませんでした。国が危機に瀕したり戦争に敗れることによって半ば強制的に外国からの圧力によって変わったというより変えられたものです。
 しかし、なんで私たちの国はいつもそんなことになっているのでしょうか。パっと思いつく事だけを書くと、やはり我々の国の政府をはじめ官庁も企業も基本的には年功序列で、歳を重ねていかないとそれぞれの組織では指導層には入れないという事が挙げられます。ちなみに戦後の総理大臣の就任年齢を調べてみると一番若い人は意外な人でした。私はてっきり田中角栄あたりかと思っていたのですが、なんと安部元総理で、初回の就任当時に52歳でした。そしてその多くは60代以上で、世間の一般企業で考えると60過ぎはもう定年しています(最近は少し伸びてきていますが)。企業などもそうですね。日経新聞の私の履歴書なんかを執筆されている方もその多くは大企業の相談役とかで、よく読むと80歳を過ぎてもなお会社にいるなんて言う人も見かけます。年功序列がいけないとは一概には言えなと思うのですが、やはり社会を大きく捉えて考えると、良いか悪いかの二択で考えるならあまり良くはないのでしょう。
 年功序列で組織の上に立つ人は、それまでの豊富な経験と実績を基に組織を采配して廻すというイメージがあり、そして同じ組織で歳を重ねながら昇進をすると人間としてそれなりに風格も備わり、判断も的確という感じはします。それはその人自身が認められているという自覚もあって内に込めた自負感などが醸し出す雰囲気なのでしょう。ですがそのことについては厄介な事があったりして、役職についてくる権限はその人自身の持って生まれた人格であるという錯覚に自他ともに思いがちになる事です。そんな状態のなかでは、若い人たちはそんな人物に当然頭は上がりません。こんな感じで各組織の閉じた世界では、何かの問題が起きても多くの場合にはその老練さと狡猾さで何事もなかったかのように裏で調整をして、あたかも何事もなかったかのように片づけてしまい、いうなればその組織は良くも悪くも長幼の序が機能しているという感じがします。この様な組織の在り方を“長老支配”というのでしょう。それは組織が順調に発展をしている状態にあるという前提では、その組織の安定を好むという意味においてはある意味良い点なのかもしれません。しかし不安定で混沌とした状況ではそれは裏目に出てしまうようです。なぜなら歳を重ねた人はたいがいにして時代の変化に弱く、過去のやり方と考え方に固執するあまり大胆な行動に出られないという弱点があるからです。日本の社会ではバブル崩壊後にITの波に乗り遅れるという形でそれが出てきました。バブル後の日本では高度成長期に働き盛りで強烈な成功体験をした人たちが社会のトップに立ったため、新しい物に対する拒絶反応と分からないものに対する恐怖もあってか過去の物つくりの方法に頼り切って進んでいました。それはそうでしょう、歳を重ねてから新しい事にチャレンジすると自分の経験が通用しないのですからね。本当はバブルが弾けたあの時に新たな可能性を求めてチャレンジをするべきだったのに、残念ながら今までのやり方を変えられなかったのです。世界がIT技術を駆使して情報技術産業や金融業がどんどん先に行く中で日本だけが取り残されるという形で“失われた20年”という道を国家全体で歩むことになったのです。もしかしたらもっと早くに私たちの国は不景気から脱却できたのではないかと思わずにはいられません。この長老支配の在り方を世間では老害と称してして呼んでいます。頭の固くなった年配者がいつまでも椅子にしがみつくという事が原因なのでしょう。状況は一つも良くなっていないのに、今までと変わらない日常が送れてしまっているという事がそういった状況を作っているのではないかと思うのです。そんな彼らはおそらく『俺のいる間は・・』という思いもあったのでしょう。残念なのはそんな彼らは権益や利益を自らの手元にいつまでも残しているという事ですよね。その為に変わらないもしくは変えないという事が長老たちにとっては大切なのでしょう。
    そんな事情をよく表した事件が戦前の二・二六事件だったのではないでしょうか。あの時代は世界的な経済恐慌で、当然の如く日本も苦しんでいました。今の時代なら政治の力で減税や財政出動などの手を打つのでしょうが、あの当時の議会の議員たちは殆どが各地方の有力者でした。既得権益を持っていた彼らが自分たちが損をする減税なんかを考えるはずもありません。自分の足元から出る利益を削るという発想はさらさら無く、そして運の悪いことに不況に加えて天候不順も重なり地方の農家などはみんな疲弊していました。口減らしのために子供を売るという事も珍しい事では無かったようです。クーデターを起こした陸軍の青年将校たちの多くはそんな農家の出身者たちでした。自分たちの地元で家族やその周りの人たちが苦しんでいることを肌で分かっていたからこそ蜂起したのです。当時の帝都である東京で戒厳令が出された直後には陸軍の中でも一程度の理解を示す動きもあったそうですが、結局は当時の天皇の強い指示によって瞬く間に鎮圧をされました。当時の天皇が地方の国民の生活が苦しいという事に理解が及ばなかったという事は分からないではないです。天皇の周りにいた人でそのような事を伝えるという事は無かったでしょう。またこの事件の十数年前にはロシア革命もあり、ロシア皇帝が市民の手によって排除されたという事を考えれば、早い段階での鎮圧を指揮したという事も理解はできます。ちなみにその時代を色濃く描いたものとして昭和の終わりごろに放送された“おしん”というNHKのドラマがありました。昭和天皇はそのドラマを見て『あの当時に国民があのような形で苦しんでいたとは知らなかった。』といわれたそうです。このエピソードを聞けば、青年将校の思いが届かなかったという事も分からないではありません。彼らはそんな天皇に親政を求めても流石に難しい事だったでしょう。その結果としてあの時代の既得権益を持った長老支配が続くことになり、そのまま太平洋戦争へと向かっていくことになったのです。そしてこの戦争に負けて徹底的に国を破壊されてからアメリカの占領によって戦後の社会が始まるのです。そこで初めて既得権益をもった戦前からの指導層が追放され、それからようやく私たちの社会は変わっていったのです。歴史家の中にはこの二・二六事件が日本の転換期だったという人もいます。歴史を語る上で“もし”という事はご法度ですが、もしあの時に日本人が自らの意思で考えて変わることが出来たら、今の日本はまた違った形になっていたのではないかと思わずにいられません。
   
   このように近現代の歴史を少し振り返るだけでも私たち日本人にとっては“自らを変える”という事は難しいのでしょう。そんな事を考えていた最中に最近耳にしたニュースは例のジャニーズ事務所の事件でした。事件のあらましはテレビや新聞で知っているでしょうからここでは書きません。この事件は多くの関係者や国民も知っていたのに誰もそのことにメスを入れてこなかったという事が問題になっています。所属するタレントの魅力とスター性プラスこの芸能事務所の大きな力、そしてそれを頼って視聴率や売り上げを稼いだテレビやその他の媒体のマスコミの持ちつ持たれつという構造の中に長老支配と既得権益がキッチリと組込まれているという事件ですね。誰もがおかしいと分かっていながら誰も口にしないという状況が続き、そのうちに誰もが麻痺してしまったというのが本当のところでしょう。だからこそスポンサー企業だって商品宣伝に彼らを用いたのでしょう。もちろん被害にあった方々は麻痺なんてしていませんでした。この問題の場合は既得権益が実は多くの国民の側にもあったという事だと思うのです。女の子たちがアイドルに夢中になるという事はそれはそれで全然いいと思うのですが、売上を手にする方(問題のあるジャニーズ事務)と娯楽を享受する方(ファン)の方でウィンウィンの関係があったからこそ黙殺されたのでしょう。また本来ならその間に入っていたメディアは問題提起をすべきだったのですが、そこもウィンウィンの中に入っていて、いうなれば三つ巴のウィンウィン状態だったという事が最悪の結果を招いたのだと思うのです。そんな状況では被害にあった方々が何処で何を言っても誰にも届かないという絶望する様な気持ちだったと思います。私はとりわけアイドルに興味があるわけではありませんが、そんな私でもこのジャニーズ事務の影の部分は何となくですが知ってはいました。その闇を知った最初の頃はテレビで見かける度に何となく“変なの・・・”というくらいには思っていましたが、時間の経過と共に段々と麻痺をしていったのです。“彼らはそういう世界なんでしょ・・・”といった感じでテレビの中のジャニーズのタレントを見ても何の疑問も感じていないという状態で過ごしてきたのです。それどころか問題があるという事すら忘れかけていたのです。ところがどうでしょう。イギリスのBBCが報道すると風向きが一気に変わって国を挙げての大騒ぎです。この事件でもやはり外(外国)の力によってでしか誰もが正面から向き合えなかったのです。自分自身を含めて、それはそれでどうなんだろうかと考えてしまいます。この事件はある意味では世界が注視しています。そして一瞬にしてジャニーズ事務は国内だけでなく世界をも敵に回してしまいました。それまでは何事もなかったように振舞い、決して頭を下げなかった人たち(ジャニーズ事務所)が頭を下げたのです。強者が一転して弱者に成り下がった瞬間です。この件で国の在り方が変わるという事はおそらくは無いでしょう。基本的には固有の事件として今後どうやって補償等の処理を進めるかという問題になるのかと思います。本当ならここから先が実は大切で、“では我々はなぜ今回も自らの大切な問題に向かい合えないのだろうか”という論調が出てくるかどうかという事が重要なのだと思うのです。
   その答えは実はすでにもう書いていたりするのですが、根本的に私たち日本人は既得権で得られる利益や快楽を手放したくないという事なのでしょう。道義的にもしくは道徳的に大いなる問題があるという事に気が付いていても、損得勘定の中で得が感じられる限りは問題にはしないという事が原因なのだと思うのです。裏を返して言えば、誰かが大量に“血”を流し、それについて『アナタたち血が出ていますよ!アカンでしょ!』と青い瞳をした人たちに言われないと問題にしないのです。今回のジャニーズ事務の件では、そういった意味では私たち日本人は道徳観が高いようで実はそうではない一面も持っているということも露呈してしまい、何か残業ですね。そして既得権という大枠で語るなら、そのお得感や利益は日本では年齢を重ねないと手に入らない様な構造になっているのではないかと思うのです。年功序列という事がそれを実現させているのではないでしょうか。簡単に考えても、日本人の給与体系は基本的には年齢とともに上がります。役職だってそうです。役職には権限が付いてきます。場合によってはその権限は本来の力以上の影響力を発揮します。組織の在り方や構造からも分かるように、その力は基本的には年齢を重ねないと手に入らないのです。そして年齢を重ねて老齢期に入ると今度はその権限と“共に守りに入る思想”という事まで加わってきます。その胸の内は『せっかく苦労して手に入れたのに何で手放さないとイカンのじゃ!』といった処ではないでしょうか。私たち日本人は元々その多くが保守的な考えを持っていますので、このような事にも疑問は持ちにくいのかもしれませんね。こうなってくると“長幼の序”とか“長老支配”という言葉は“老害”と同様に悪にしか思えない様な気さえしてきます。日本の国内でも個々の組織で抜擢という事も無くはありません。抜本的に改革する時はそんな人事も見たりします。ですがそれは稀です。もし私たちが国を挙げて出直しを図るなら常に新陳代謝を図るがごとく若い世代を社会のトップに据えて、経験のある年配者は一歩引いたところから見守るという形にしないとダメなのではないかと思うのです。若い人が上に立って長い先を判断するという事は、その世代の老後にストレートに出てきますので、大胆な改革だって出来ると思うのです・・・。常に海外に非難されてびくびくするような国ではなく、積極的に自分たちを変える事が出来る国になる事を強く望みます。

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