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もう一人の「日本代表」(#003)      父親不在と4人の母親

おもちゃを買ってくれるおじさん

    少し時計の針を戻して、アラタの両親の話をしよう。
 アラタの母、和泉明子とインド人の父親が出会ったのはふたりの勤め先だったエア・インディア(インドの国営航空会社)の大阪オフィスだった。
 明子は大阪外国語大学で英語を修め、1970年の大阪万博では日本館の通訳を務めた。エア・インディアへの就職も語学力を生かしてのことだった。あるとき、明子が秘書として仕えていたアシスタント・マネジャーが交代することになり、インドから赴任してきたのが後に夫となる15歳年上の男だった。インド北西部グジャラート州出身のその男と明子は互いに惹かれ合い、1979年に結婚(明子は結婚退社)。夫婦になったふたりは転勤先の東京で第一子を授かる。それがアラタの兄、信生(しのぶ)だ。
 やがて夫にインド転勤の話が持ち上がるが、家族のこともあり、夫はインドへの赴任を延ばし延ばしにしていた。そうするうちに明子は第二子(新=アラタ)を身籠る。夫はいよいよインド行きを迫られ、出産間際の妻はいったん郷里の山口に戻して、単身インドに移ることにする。明子は長男を連れて帰省し、7月末、実家の近くの産院でアラタを出産する。
 当初は出産後半年くらいしたら、母子3人で夫の待つインドに渡るつもりだった。しかし、それはインドの気候が最も苛烈になる季節を意味した。生まれたばかりの子どもをインドの厳しい環境に移すのをためらった夫婦は相談し、もうしばらくアラタを下関で育てることにした。
「そして、そのままずるずると……」
 これは下関市彦島のアラタの実家で明子に話を聞いたときの彼女の言葉だ。
 夫はアラタが9歳になるまでは年に1度か2度というペースで家族に会うためにインドから下関に通った──。

「父の顔もよく覚えていないんです」とアラタは言う。「たまに家に来て、おもちゃを買ってくれるおじさんという感じの存在でした。父は日本語が話せなかったので、兄や僕と話すときは父が英語で話し、母が通訳していました。頭が禿げていたこととクリームコロッケが好物だったこと、父について僕が覚えてくるのはそれくらいです」

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