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なんでこうなったのだろう。

昨年の4月に父親が、肺気腫で倒れたと職場の警備会社から連絡が会った。

「ああ、ついにか」と半分観念してハゲムが入院した兵庫県柏原市の柏原病院に向った。

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ハゲムと僕が暮らしたのは、兵庫県丹波市(旧山南町)の0才から6才までの幼少期の6年と中学校入学からの3年間だった。

幼少期の6年間は、父親の記憶があまりない。時々思い出すのは、親父の自転車の後ろに乗っている映像を思い出す。

父親は会社員時代、大手ゼネコンで土木設計士として勤めていたらしい。
だから大阪から丹波の自宅まで当時2時間通勤にかかったというのだから、
あまり家には帰って来なかった。

母親のシゲヨは、丹波のど田舎の真っ暗の夜をサトシと僕のふたりと待つことが耐えきれず、滋賀県甲賀市の実家に帰ることになる。

ハゲムはあいまいな言葉でいうならば、不器用な人であった。
子供心に直感的な予感があって
別居している小学校時代には、
父親が犯罪者としてテレビに出てくるのでないかと僕はよく不安に思っていたことを覚えている。

同居した中学時代には、ハゲムは藤和設計という個人事務所を営んでいた。

ハゲムは、とにかく自分の身の回りのことができない。干渉されるると暴言をはく。母に暴力をふるう場面が多々あった。茶碗が飛ぶこともよくあった。
こうなれば、ハゲムとシゲヨが別居して祖父と祖母と暮らしている方が幸せだった。

滋賀県湖畔の閑静なベットタウンにあった、そこだけ寂れた団地のリビングから夫婦喧嘩が始まると。
兄サトシがはじめは止めに入っていたが、ハゲムに殴られたあたりから喧嘩を止めに行かなくなった。

サトシが止めに入らなくなり、次は僕の出番になった。

高校時代の僕は、体格も今と変わらないものだったので。
暴力をふるおうとしたハゲムに蹴りを入れたことを覚えている。その頃になると、僕の方が力がついてきた。

いつの日だったか、夫婦喧嘩が隣のリビングで始まると心臓の鼓動が聞こえてくるぐらいドキドキして、僕が止めに入って、同じ部屋だったサトシに「なんで行かへんねん」と一言いいながら、止めに入りハゲムを数回殴った。覚えている。

その日の数日後だったか、父親ハゲムはその母が住む実家にひきあげた。
出て行った。

寂れた団地に住んでいたため、あまり収入がなかったのかと今になって母親に聞いたとき、ハゲムの収入は月70万から100万はあったが、月30万しかもらえなかった。

なるほど、高校生の子供2人と6才離れた妹とを養うのはギリギリで、シゲヨは証券会社や建設会社でいそがしく働いていた。

設計用の文房具がたくさん入った棚の引き出しからは競馬の外れ馬券が山ほどあったのを強く覚えている。

ハゲムの実家は、父親が郵政省の役人。生真面目で同じことを何回も聞いてくる祖父。「勉強というのは、つとめて強いると書く」と何回も僕に話すことを覚えている。
祖母は、芦屋のお嬢様だったらしい。なんのお嬢様かは、わからないが、滋賀県栗東の自宅から高速バスに乗って阪急百貨店にサトシとヤスシを連れて日用品の買い物に行くだいぶ変わった祖母だった。

祖母は、名前がとく。子供時代に実母が亡くなり、後妻の家族にいじめられたことを孫の僕に話すのだからだいぶ性格が曲がっていた。

小学校のころ、たまに父親のハゲムと会うことがあった。ハゲムとその祖母とサトシとヤスシで木下大サーカスを観に行った帰り、JRの車内の中で、
なぜかサトシを僕を責め始めた。

シゲヨの実家が牛乳配達店を営んでいたため、サトシと僕は登校前に元気よく牛乳配達をしていた。朝早く大変だったが、僕は案外楽しかったことを覚えている。
その牛乳配達をやらされている、働かされていると僕たちが被害者みたいに車内で言ってくるのだ。泣きそうになったが、ぐっと涙をこらえたが、サトシが泣きだしたのにつられて泣いてしまった。

祖母は、今で言う毒親と言うものだろうと思う。

僕の中では、父親ハゲムの性格は遺伝ではあるだろうが、母親との関係性が問題だったのだろうと思うようにしている。

愛着の問題はよく語られることだと思う。(参考「愛着障害」岡田尊司著 光文社新書)

このあたりは、母親のシゲヨにインタビューする機会を作るが、年子の兄弟で、愛着の関係が兄サトシはおっぱいをあまり吸わなかった、甘えることが上手ではなかったと言っていた。かたや僕は、べったりする性質だったと言っている。

僕自身、家族の普通のあり方が分からず、自分のどう家庭で過ごしていいか分からないことが多々あった。

家族の問題や精神障がいを見る場合、個々に経験していることが違うので、
殊更難しいだろうと思う。

僕も近くにいた尊敬する大人がいたから、それをモデルにした部分はあったと思うが、自分の息子や妻には迷惑をかけた。


さて、ハゲムの話に戻るが
もう何年前のことだろうか、ハゲムの母親、とくは少々痴呆が始まったことをきっかけに東京の伯父(ハゲムの弟)が面倒を見るようになった。そしていよいよとなったころ、僕も見舞いにいった。病室での写真を撮った。

そして、いよいよお亡くなりになって、東京の羅漢寺と言うお寺で葬儀がとり行われた。
長男である、ハゲムは葬式にも来なかった。
その時には丹波の家に住んでいた。
この家は、電気も水道も通っていない。

このあたりのフィルムがまた出てきたら、スキャンをしてお見せしようと思うが。
後日、祖母の葬式の写真と死顔の写真をハゲムがすむ家に置いてきた。

こんなことを書いてなんになるんだろう。
つくづく思いながら書いている。


今も必死に生きている人がいる。
よく分からない業や運命かなんかに翻弄されて生きている人もいる。

自分にはどうすることが難しい脈々と続く「何か」に翻弄されている人もいる。
どうか、希望を見失わず生きて欲しい。
できる限りのこともやらなくてもいい。





どうにもならないことがあれば、できるだけ離れることも大事。
どうにもできないことがあれば、あきらめることも大事。


まずは、自分の人生を行く。




今、言えることはそれぐらい。

とにかく。
つづく。

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サポートいただけたら、「サトシとヤスシ」写真展の準備や取材の費用に使う予定です。