見出し画像

意志の強度/レッツ悟り

というワードが唐突に頭に浮かんだので、逃してたまるかと捕まえて固縛して羽交締めにした。

強度を排他的態度で補強するのはよろしくないと思った。無条件で『AはAだ』とする類いの。『親は尊敬すべきだ』という親側の人間に都合がいい教訓めいたナニカ。都合の押し付けには、徹底した懐疑の眼が必要だ。そこには利己的なモノが潜んでいる。

なら『AはAだが、BはCかもしれない』という中途半端に出てはダメだ。懐疑は自分すら含めたあらゆるに向いてなければ。

『教訓』というワードも引っかかった。一体私は何を教訓にしているかだ。
法律に守られているのは間違いないが、心の栄養であったり戒めだったり社会を潤滑にする為の教訓。どのような教訓を意識し、行使しているか。

🤔

殆ど浮かばなかったが、岡潔氏の『戒律』を思い出した。『○○してはいけない系』の考えだ。確かに『これはすまい』と心に決めたルールのようなモノはある。
違法云々(万引きとか薬物の使用)でなく、あくまで自分で決めた『こんな人間やだなぁ』という感覚に対する拒絶。
確固たる箴言はないが、『なりたくない人間像』があり、そこを侵食すれば沽券や尊厳にかかわる。

が、岡潔氏の『戒律』は、もっと強制力のあるモノとして書かれていた筈だ。他者が制定した絶対守るべき決まりごとのような。
私が守れなかったのは、せいぜい道路交通法程度(一時停止無視によるゴールド免許の剥奪)のモノで、法律に牙を剥いたりはしていない。

ならたとえば、気に食わない輩に心の中で中指を立てる行為……これはどうだ❓
博愛の精神を持つ者からすれば、私の行為は汚らしく映るだろう。
じゃあ今日から一切取り止め、気に食わない輩を許容すべき? 煽り運転とかされても、笑顔で運転を続行すべき? それこそ『やだなぁ』と思ってしまう。どうしても。

仏教的な『悟り』の境地に私が到達するのは至難だろう。

🤔……

不眠気味だから『安らぎ』はクリアできてないな。本能からの解放もいまいちピンとこない。解放というぐらいだから『悪い概念』なのか? 暴力的な本能のような。
『博愛的で救済的な本能』と見做した場合、わざわざ解放(手放す?)するのは不合理に感じるしな。

この中だと、②に強く該当する気がする。嫌いなものを嫌いでないと無神経になるのが目標なのだろうか。

これはどれも当てはまらない……と思いつつ、声のデカい品のないクソババァに密かに憎しみを抱いているのを思い出した。また悟りから遠のいたな。

③の『真実を見失う』という状態もよくわからない。なぜって『真実』が何であるか、今の私に説明ができないから見失うもクソもないのだ。

ともかく『図々しく自分勝手な人間』に、強い拒絶を抱いている自覚はある。裏を返せば、それほどに関心があるのだな。

ならそれらに対し、どう振る舞うか。それが課題か。

『自身の心の安息の為、相手に是正を求める』……これは勇気が必要だし、不確実な部分が多いし、普通に嫌われるだろうな。あと相手の人間性を暗に否定するハメになる。

『アレはあのような人間と諦観を発動させ、ある種の許容をする』……これはなんか負けた気分になるな。

なら最終手段『完全に無関心となる』がイチバン確実だ。相手への期待をゼロにすると同義でもある。実際、身勝手な期待の先には大抵『失望』が待っているので、期待は過度にすべきでない。

私が意志の強度を強めるほど、それに反発する力も強くなるだろう。出る杭はなんとやら理論だ。
かといって、自身の『成長』すら諦めるのはイヤだ。私は常に知識を取り入れ排出したい欲がある。これも煩悩なのかな❓

誰にも打てないほどの『杭』になれるビジョンが浮かばないから、結局中庸ほどほどな自分のまま生きるしかないか。

つまらない結論になったが、今はそれでいいか。



もうひとつ、意識的に避けてるモノがあった。

『既知化した概念による思考昏迷状態』とでも言おうか。

哲学用語なり精神医学用語なりの『パッケージングされた概念』を用い、『アレも当てはまるのでは……コレも当てはまるのでは……』と、自らを混乱の最中に放り込む行為。

私は『既にある』を当てはめたいのではなく、『地道な思考により実感を得たい』のだ。

要するに偉い人が生み出した用語とそれに含有される意味を一括で摂取したいのではなく、素知らぬまま導き出したいんだ。

簡単に言うと『○○ありき』の思考を避けたい――が、勿論様々な今までの経験からの前提・偏見・常識……これらが思考の土台になっているのは否定できない。

だからせめて自ら概念を探しに行かない姿勢をとる。これはプロフィールの一文『得ようとする心構えが邪、漠然とすべし』にあらわれている。

更に更にシンプルに言い直すと

冒険がしたい

ただそれだけだと思います。



エッセイもそうだが、創作は特に『手放す』という感覚がある。もっと言えば『手放さなければ気がすまない』か。

既に沢山を抱えているのに、気を抜いたらどんどん『ナニカ』が膨らみ苦しくなる。神経が過敏になり、呼吸も疎かに。

だがもしかしたら、この手放す感覚は『悟り』への地道な一歩かもしれない。



言葉をこねくり回した先に、ナニカが待っているかは疑問だ。

言葉にはもれなく『規定された意味』がある。
意味が既にあるモノ同士をいくら掛け合わせたところで、何もかも手放せるか❓ 断言はムリだね。

だとしたら、言葉の『外』にある『未知』に期待するしかなさそうだ。

けど、書くのもやめない――が、常に『こんなモン書いてどうなる』という意識もある――ので、虚しさを払拭する為にイマジナリーフレンドが生まれた――のかもしれないでし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?