カクノせらぴー 🅿︎―🅿︎―
【エッセイ】瞑想的な
何年か前、写経をしていた時期がある。
筆と墨汁と半紙をわざわざ用意し、書き綴った。
現在の私が嫌う『意図』がそこには在った。
要するに【写経 効果🔍】と期待してたのだ。
悩ましい時期だったので、自我やらなんやらを消し去りたかったのだろう。
自我とは大それた……ただの『くよくよ自分』だな。
滝行 念仏 ヨガ 瞑想 etc
手段は違えど目的は一緒でなかろうか。
このようにスマホで文字を重ねるのもそうだ。
現在はこれが最も『自然』に行える瞑想的行為。
『意図』とは『欲』だ。
こんなものを持ち合わせていたら、欲求解消に振り回されるのは自明だ。
巷にゃあ方法が色々用意されている――が、わざわざ倣う必要はない。
必ず自分に合った方法がある。雑草抜くだけとかな。
あと写経って腕が疲れるんだよね。プルプル……
私は小さい頃習字を習わされていたが、全く面白くなかった。毎回二度書きを指摘され最後まで居残りさせられ、ひとり虚しく筆を洗って帰った。
こんなヤツに写経の素養などない。
生きてる事自体が苦痛めいてるのに、更に苦行を重ねるのはいただけない。
つまり『最もラクチン☀️』な方法がいい。
たとえば、以前も書いたな――で、『イヤな感情をアウトプットしたら大丈夫』みたいなヤツがあるだろう。
これだって私からしたら『意図』にまみれており、やらされ感が漂う。つまり苦痛を伴う。
🔺コレを提唱した人には効果があったかもしれないが、万人に同様なモノが得られるなど、冷静に考えればあり得ない。
もう何も考えずにひたすら書きまくるのだ。
意図こそしてないが、『個からの離脱』のような感覚を目指している。
『自分』とやらを大切にナデナデしすぎると、必ず『欲』が顔を出す。ジョギングでもするか? 私にとっては『苦痛』だが。
だからさ、絶対あった方がいいって(押し付け)
人生に一つくらいは『瞑想』チックな行為が。
流されるがままの人生も、そりゃ悪くない。
でもさ、小舟がありゃあ、ちょっとはラクじゃない❓
【書き終え後の新たな疑問】
瞑想的行為はあくまで『自分の為』だ
その行為の果てに『自我/欲』が薄まるとする
その時『利他的行為』に対する欲はどうなってる❓
自分自身はまぁ、身軽だろうな
でも、すっぽり垢抜けすぎちゃいないか❓
自然と自動的に、利他的行為ができるのか❓
無私利にこの身を捧げる……うーん
死にたくはないなぁ
この話の先には『宇宙的』なモノが出現する
宇宙の存続、バランス等々
そして直感、反射神経的な話にも
溺れる人を、きっと私は咄嗟に助ける
この判断以下の直感に『欲』は介在しない
欲を捨て、直感に任せる
……こんなカンジなのかなぁ❓
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