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『書く行為』は必須なのか

答えはNOだ。
それゆえに、軽視されている。

世の中、書く行為の素晴らしさを説いた本がゴマンとあるが、金儲け目的の下賤なモノだ。あの手の本を読めばスグに『ページ数の都合から筆者が適当な文字で埋め合わせしてるだけ』と察知できるだろう。
まぁ、表紙の帯の宣伝に数字(インスタのフォロワー数が❗️とか)を使ってるなど、分かりやすい虫除けをぶら下げてくれている温情には感謝するが。

人生を見渡せばどうだろう。
私たちは、自分の意思で集中して書き上げるという一連の行為をどれだけするか。学校の日記や作文、論文だってノルマとして存在している。
知っての通り、『こんなモノ』が楽しいワケがない。なので軽視どころか、嫌われているんじゃないかな。

では、書く行為を好きになるにはどうするか?

わかんないですね、それは

🔔『えぇ……』

だってさ、まず先行するのは『伝えたい』って気持ちなんよね。その先にあったのが『たまたま書く行為』だっただけ。

それを見つける以前は『いやな気持ち解消』の為に、色々な趣味などを試してた。こんな動機で、何かを好きになる可能性は低いだろう。低いし、チンピラが物に当たるのと変わりゃしない。

『やだ❗️ うわぁ〜ん❗️(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)』

ってジタバタしてるだけなんすよね。

私も『書く行為の素晴らしさ』に気がつくまでは、書く行為が素晴らしいなどという思いは毛頭なかった。しょうもない日記として時々、言葉を並べるぐらいなんよね。

『心情吐露や近況羅列』により、【時々】心辺整理をするってスタイルがあるが、私は全然足りないと思う。
これってつまり、何かが溜まるまで律儀に待ってるんですよね。

生きて、事が起き、溜まる……いずれ吐き出す。

チンタラしてんじゃねぇよ

って思うんすよね。
つまり逆に、先回りするかの如く毎日書けよと。

吐き出して整理する【手段としての】文章を越えた先に、好きがある

生み出す方向にシフトするんよ。
なぜなら『吐き出しはあらかた終わったが、書くのが好きなので何か書きたいから書かざるを得ない』って心理状態だから。こうなりゃ勝ち確やぜ。

そうなる理由は、『自身を助けてくれた文章への感謝と恩返ししたいってアレ』なんすよ。単なる情報伝達のツールという認識の言葉を越えた、愛がある。

地元に貢献するチンピラと同じ心境やぜ。

🔔『いちいちチンピラを引き合いに出す意味、ある❓』

ない。
ともかく、愛があるから【奉仕】したくなる。こういう経過の先にある楽しさを、みんなが持っていれば社会はもう少し温かくなると思う。
なぜなら、『軽視すべきでないモノ』を体験を通じ知ってるからだ。

意志を持ってして向き合い続けてきたモノには、価値があるんだ。

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