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かぞくのかたち ⑧ 〜 マイネーム イズ アップル 〜

偶然にも姉貴が、アメリカに旅立つ頃、所属していた陸上部が無くなるという、降ってわいたようなチャンスが巡ってきた。

会社は早期退職制度を用意して、まだ3年目の僕に200万円の退職金を提示する。

しかも辞めてから1年間は、会社の寮に残ってもいいという。まだ20歳だった僕は、その条件に迷わず飛びついた。

当時はお金をそんなに使うことがなく、世間知らずの田舎者で、

「200万あれば一生暮らして行けるんちゃうかな」

とマジで勘違いしている馬鹿であった。
そして一緒に辞めた先輩と、向かった先は、川崎駅前の「HIS」格安航空券のお店で、

「来週から10日間、どこでもいいからお得なチケット下さい」

と東南アジアのタイ往復チケットを3万円で手に入れた。そうして何の準備もなしに2人は旅立った。

「海外を見てくる」

日本から出るのが初めての2人は、旅行の知識どころか、英語も全く喋れなかった。

タイの空港に降り立ち、売店でリンゴを買うのさえ、どう言えばいいのか分からない。

「マイネーム イズ アップル」

キョトンとする店員にリンゴを指差し、お釣りを受け取ってきた先輩に人間力の凄さを学んだ。

旅の話はまた今度に書くとして、姉貴と僕は就職して安定していたのが、弟が高校を卒業する直前に不安定な状況に陥っていた。

「これはファミコンをしている場合ではない」

と、反面教師であるが、大学に受かるため、猛勉強する弟のモチベーションに、なったのではと勝手に思い書いてみた。



9.教員住宅からの引越し


最後に親父の話を書こうと思う。

自分で建てた持家に住む。これが彼の人生最大の目標であり、40を過ぎて、まさしく叶えた夢でもある。

「借家の大工だと馬鹿にされる!」

と親父がたまに言っていた記憶がある。

高校の頃に引越しをしたので、その家はもう四半世紀の月日が経ち、少し古びた感が拭えない。

通常、木造二階建は、3〜4ヶ月で出来るというが、彼は3年の月日を掛けて完成させた。

これには少々事情がある。僕が中学生の頃、親父は狭心症みたいな症状で一時期、家で寝たり起きたりの生活を送っていた。いろんな病院に診てもらったが、

「病名すら分からなかった」

恐らくバブル全盛の時代に、ひたすら働き続けた体が、悲鳴をあげたのだろう。

それは毎日寝たきりの状態ではなく、体調のいい日はリハビリを兼ね、1人でコツコツと自分の家を造作するという状況であった。それが3年もかかった理由である。


祖父も大工で、九つ上の伯父も大工だから

「必然的に自分も大工になった」

と酔っ払った親父から、聞いた事がある。また、

「ワシは中学を卒業してすぐに働いた」

これが彼の口癖だった。詳しくは働きながら夜間の定時制高校へ通っていたのだ。

彼の姉である伯母さん曰わく、

「勉強が出来なかったから定時制の高校しか受からなかった」

とのこと。中学の同級生であり、当時は農協の事務員をしていた母と出会い、結婚した。そのおかげで町立の教員住宅に住めることになる。

当時のことは両親からあまり聞いたことが無いが、一つだけ覚えている話がある。

「母の成績が良かったので、もし結婚したら、自分より頭のいい子供ができるはず。自分に似た頭の悪い子供を作りたくない」

そんな想いから結婚を、申し込んだのだと。

そして住むことになる新居だが、この教員住宅は家賃が無茶苦茶安かった。確か月5,000円程だった気がする。僕が小学生の頃は、

「友達よりもかなり貧乏な家だ」

と思っていたが、今から思えば破格の家賃で、そのような所に住めればラッキーと思う他ない。

両親が出会った頃に、この団地が造られたという。当初は、

「町中から応募が殺到した」

らしいが、真実の程は定かではない。
また、

「農協の職員がなぜ教員住宅に入れるのか」

と疑問に思うかもしれないが、役場に勤めている人や、消防士もいたので、恐らく公務員であれば、誰でも入居できたのだと思う。

親父は職人であるが故に、同じ職人仲間のことを、良く思っていなかったようだ。また彼は、

「学校の先生や役場に勤めている人が、周りにいる環境で子供を育てたい」

と思っていたのかもしれない。
これは、役場に勤めておられるKさんという方が、親父とよく酒を飲んで、話していた内容を、子供ごころに覚えた話である。

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