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日本人のほとんどが知らないステラおばさんの正体

過日、池袋で所用があり、池袋駅のJRの改札を抜けて西口の方を目指して歩いていたら、バターのいい匂いが広がる一角の脇を通ることになった。匂いにつられて目をやると、そこには「ステラおばさんのクッキー」の店があった。幸い、時間に余裕があったので店に寄って、「ステラおばさん」の絵とはだいぶ造作がちがう、可愛らしい女性からクッキーを買うことにした。無事に会計を済まし、再び目的地に足を動かし始めたが、あることが気になった。それは、「ステラおばさん」は何者なのかということだ。生来、気になったら止まらない性格なので、早速手持ちのiPhoneで「ステラおばさん」について検索してみた。すると、「ステラおばさんのクッキー」のブランドサイトにその答えがのっていた。長いので引用すると、

ステラおばさんは、とっても愉快な人でした。ステラおばさんと一緒に少年時代を過ごしたジョセフ・リー・ダンクルには、楽しかった思い出しかありません。 ジョセフが生まれたとき、1908年生まれのステラおばさんはペンシルバニア・ダッチカントリーで幼稚園の先生をしていました。でも彼女を先生と呼ぶ人は誰もおらず、子どもたちも、村の人も、みんな 「アントステラ=ステラ」 おばさんと呼んでいました。(中略)かつて村の教会主催のお菓子コンテストで優勝したこともあるステラおばさんのクッキーやケーキは、いつも世界一でした。(中略)1982年、ジョセフはステラおばさんのお菓子を日本に紹介しようと決意しました。(以下略)

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ステラおばさん(1908~1988)

ということで、まず「ステラおばさん」が実在する人物であることに驚きを覚える人も多いだろう。

そして、「ケンタッキー・フライド・チキン」のように海外の会社が進出して日本にチェーン展開しているのではなく、「ステラおばさんのクッキー」というブランド自体は日本で生まれたものであるというのも知らない人は多いかと思う。

私にはこれらの他にもう一つ非常に興味深いことを見つけた。それは、ステラおばさんが、ペンシルバニア・ダッチカントリーの出身ということだ。日本では聞き馴染みのない人も多いかもしれないが、私は学部の時代にゼミでペンシルバニア・ダッチについて調べて発表したことがあったので、ペンシルバニア・ダッチはよく知った存在だった。しかしながら、社会言語学的、ドイツ語学的にも極めてニッチな存在だったため、発表以来何も手を付けていないテーマでもあった。まさか勝手知ったる池袋駅の中で、しかも、「ステラおばさん」からペンシルバニア・ダッチを思い出すことになるとは夢にも思わなかった。

せっかくなので、今回はペンシルバニア・ダッチが如何に興味深い存在か、そして実在の「ステラおばさん」がどのような生活を送って、おいしいクッキーを作っていたかについて考察する。

1.ペンシルバニア・ダッチとは何者か?

現在の英語では「ダッチ(Dutch)」は「オランダの」という意味の形容詞として使われているので、そもそも、ペンシルバニア・ダッチと聞いてオランダを思い浮かべる人も多いかもしれない。しかし、この場合の「ダッチ」は、「ドイチ(Deitch= Deutsch)」がなまったもので、「ドイツ人、ドイツつの」を意味する。ペンシルバニア・ダッチはアメリカ・ペンシルバニア州のドイツ系住民や彼らが使うドイツ語を意味する言葉なのだ。

1492年のコロンブスによる新大陸発見以降、1623年にメイフラワー号でアメリカに渡ったイングランド人「ピルグリム・ファーザーズ」や1626年にニューヨークの基になるニューアムステルダムを建設したオランダ人など、ヨーロッパから多くの移民がアメリカにやってきた。ドイツ人も、1683年ドイツ西部にあるクレーフェルトという町に住む13家族がコンコード号という帆船に乗ってフィラデルフィアに上陸した。これ以降、ドイツ人が多くアメリカに移民するようになる。ちなみに、現在のアメリカ人の15%ほどはドイツにルーツを持つと言われている。あのドナルド・トランプ前大統領もドイツの血を引いている。(余談であるが、トランプの評判は先祖の祖国であるドイツでは頗る悪く、大統領在職時は、著名なドイツの写真誌『Der Spiegel (シュピーゲル)』ではたびたび戯画的に扱き下ろされていた。)

ペンシルバニア・ダッチはただのドイツ系の移民ではない。というのも、ステラおばさんはじめ彼らは、極めて特徴的な生活様式を送っているのだ。ペンシルバニア・ダッチは20万人から30万人と見積もられているが、そんな彼ら多くは、「簡素派」と呼ばれる。何故に「簡素派」と呼ばれるかというと、これは彼らが信仰上の理由から、聖書に示されている通りの生活を営むため、必要以上の文明の利器を排除して生活しているからだ。

2.アーミッシュの暮らし

「簡素派」は、主にメノナイトアーミッシュハッタライトダンカーズの4つの宗派に分けることができる。

そして、ステラおばさんはこのうちのアーミッシュだったらしい。

先に載せた写真のステラおばさんの服装をよく見てもらいたい。なかなか古風で現代ではそうそう見かけない服を着ているのがよくわかるだろう。このようにアーミッシュの人々は古くからの生活様式を現在でも続けている。ではなぜ、そのような暮らしを続けているのだろうか。その答えは、アーミッシュの歴史を紐解いていくとわかる。そして、同時にステラおばさんのクッキーのおいしさの秘密もわかってくる。

3.アーミッシュの始まり

ペンシルバニア・ダッチの歴史を知るには、少しドイツの歴史をさかのぼってみる必要がある。

1517年、マルティン・ルターが教会による贖宥状の販売を批判した「九十五か条の論題」を発表すると、ヨーロッパで宗教改革が始まる。宗教改革は、これまでの教会の権威を大きく揺るがし、キリスト教が大きくカトリックとプロテスタントに分裂するまでに発展する。そんな中、スイスの宗教改革指導者フルドリッヒ・ツヴィングリの一派が、それまで教会でごく一般的に行われてきた幼児洗礼(生まれたばかりの赤ん坊をに洗礼の儀式を行うこと)を聖書に基づかないこと行為として認めない「再洗礼派」の運動を始める。

1536年頃までには、オランダ人のメノ・サイモンズ神父が最大の再洗礼派の指導者となり、神父の信奉者がメノナイトと呼ばれるようになる。メノナイトたちは「ラディカル・リフォーメーション(急進改革派)」と呼ばれ、旧来のカトリック、そしてより穏健な改革を目指すプロテスタントの両方から弾圧を受けることになる。1555年のアウクスブルクの和議以来、領邦に住む人々は君主が選択した宗派に属するという「宗教属地主義」がとられたこともあり、メノナイトたちは弾圧から逃れるために2世紀あまりを受けながら各地を転々としていた。

イングランド人のクエーカー教徒ウィリアム・ペンが17世紀後半から建設を始めたペンシルベニア植民地は、ヨーロッパで弾圧を受け続けた再洗礼派の者たちにとってまるで楽園に見えたかもしれない。というのも、ペン自身がクエーカー教徒として迫害を受けたこともあってか、ペンシルベニア植民地では信仰の自由が保障されていたのだ。先に紹介したクレーフェルトの13家族もペンの作った新天地で自らの信仰を全うしようとするメノナイトの一団だった。

アメリカに渡ったメノナイトの一人だったヤーコブ・アマン(ジェイコブ・アマン)は17世紀末により厳格な教義を広めるべく、アーミッシュ・ムーブメントと呼ばれる宗教運動を興した。これがアーミッシュの起源である。

4.アーミッシュの厳格が生んだもの

このようにして生まれたアーミッシュは自分たちのコミュニティの外の文化を極力避けるように生活を行うことになった。歴史的に自分たちの信仰を弾圧してきた外の世界との接触を極力避けるように…

社会の中の信仰や文化は往々にして変わっていくのが世の常である。それはどんなに強い信仰心を持つ一派であっても同様だ。しかし、アーミッシュたちは移り変わる権力や社会に翻弄された歴史を辿ってきたためか、不変であることを是にしているように思われる。

それ故か、文化を示すアイデンティティの象徴である自分たちのドイツ語を手放そうとはせず、現在でも、17世紀ごろのプファルツ方言の原型を保っていると言われるペンシルベニア・ドイツ語をまる防人のように守っているのだ。

不変であることは、歴史を長くとってみると、極めて難しいことだ。だが、アーミッシュたちは今でも不変であり続けようとしている。ドイツ語には"Ordnung"(オルドヌング)という単語がある。これは規律や秩序を表す語だが、アーミッシュたちは自分たちに厳しい Ordnung を課すことで、変わらずにあり続けようとした。

現代においても信仰を保つために電気や水道といった文明の利器を使うことはおろか、現代的な服装を着るを禁じ、生活のすべてを信仰を守り続けるためのOrdnungを象徴的に私たちに伝えるのが、ステラおばさんの服装であるのだ。

5.ステラおばさんのクッキー

ステラおばさんのクッキーを食べると、なんだか懐かしい味がするように感じる。それはなぜか。私はその理由にステラおばさんが育ったアーミッシュが大切にした信仰のために不変であることがあると思う。

私たちが普段知ることのない、そして一切つながりを感じることのないアーミッシュ、ペンシルベニア・ダッチそのものの歴史をステラおばさんのクッキーの素朴なおいしさから感じる。

ありがとう、ステラおばさん。




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