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老親とのコミュニケーション―介護の日々

コミュニケーションとはなにか? と言われたらいろいろな答えがあるだろう。
私なら、「相互理解」とか「話すことよりも聞くこと」「相手を尊重すること」などと答えそうだ。
でもこれはビジネスや友人との関係、親子でももっと若いときの話かもしれない。
91歳間近の母親との生活のなかで、コミュニケーションをうまくとるのは大変である。

まず耳が遠くなってしまった。したがってこちらの声が届かない。
自然と大声で呼ぶことになるが、不思議なもので声を大きくすると自分でもなぜかイライラしてくることがわかる。ちょっとした「心理学」の読み物などで、人は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しくなるのだ、とか、気分が落ち込んでいるときには笑ってみましょう、そうすると楽しい気持ちになります、とか書いてあるが、それに似せて言えば、声を大きくすることで、イライラが募り怒りがわいてくる、ということかもしれない。
こちらが平常心を失えば、言葉も気持ちも届くはずがない。

認知症というほどではないが、最近は言葉の理解に関しては、ずいぶんと衰えたと思う。これもコミュニケーションがとりにくい理由だ。
かなりゆっくりとセンテンスを区切って話さないと理解してもらえない。場合によっては、途中で「イヤイヤ」という表情を見せて理解することを放棄してしまう。

それから意外に影響しているのが、母の腰が曲がっていること、首があげられないことか。
母は、いつのまにか腰がずいぶんと曲がってしまった。曲がり始めのころに無理に顔を上げていたせいなのか、老化で頸椎がすり減ってしまっているのか、首がこってしまっていて顔をずっとあげているのがつらいらしい。
それでも「他人」が相手ならばがんばって顔をあげて応対するが、私とはだいたいは下のほうを向いたままだ。
「相手の顔を見て話せ」と、よくいわれるが、それができないわけだ。
こちらも私のほうにほとんど顔を向けてくれない相手に話をするのは、なかなか難しい。さらには耳が遠いので、私の声が聞こえているのかどうかもわからなくなる。

でも、この半年でコミュニケーションは「相互理解」というような考え方自体が、違うのではないかと思えてきた。
母の言葉には「うんうん」とうなずき、こちらはこちらで言いたいことは言うが、伝わるかどうかは気にしない。意味よりも広々とした公園でキャッチボールをするように行ったり来たりする言葉のやり取りを感じとる。
極論すれば、家族の一員として尊重されているという気持ちをもってもらうための時間、本人が他の家族へなにか貢献しているという実感の確認が、言葉のやり取りの主な目的なのかもしれない。認知症予防のためのトレーニングとまでは言いたくないが。

介護や看護の方が、大げさな仕草やほめ言葉ばかりで老人と接するのを見ると、ああ、あの人たちは実は相手の老人を尊重していないのではないかと思えて仕方がなかった。特に10年以上前、父が施設にいたときにはずいぶんとそれを感じた。
でも、いま母と接してくれているスタッフと母との会話を聞いていると、楽しそうな雰囲気が伝わってくる。会話がかみ合っているとは言えないときでも、冷たい雰囲気になることはない。あとになって母が「さっきの人はおしゃべりだねぇ」と言っても、そこに悪い感情はない。
高齢者とのコミュニケーションは、相互理解のためではないし、何かの伝達ですらない。お互いの存在確認みたいなものなのかもしれない。

ただ、それでも少しだけ思うことがある。
もし高齢者自身がコミュニケーションに、若い時と同じようなことを求めているとしたらどうだろう。そのとき会話の相手が、理解や傾聴することを最初から放棄していたら、どんな気持ちになるだろうか。
自分自身が一人ぼっちの老人になったときにそんな場面に出会ったら? そのときの孤独感、やるせなさは、どんなものだろうか。想像できるような気もするし、想像したくないという気持ちにもなる。

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