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agree:単語帳に薔薇が咲いたので

居酒屋の店員への態度が最悪だったという
それだけの理由で
彼は長年親しかった友人とでも
かんたんに縁遠くなるタイプだ

それを心が狭いという人もいれば
こちらがおどろくほどに同調する人もいる
否定されようと肯定されようと彼は何も言わない
世間には色々な人がいるのだ
というのも彼の持論のひとつだから

機嫌の良さを酔いのせいにしたくなくて
彼はしらふで仕事から帰ることが多い
ひつぜん機嫌の悪い日は飲んで帰ることになるが
飲めば機嫌は良くなるわけで
ゆえに彼には悩みはあっても機嫌の悪い日はない

彼はピタパンが好きだ
ピタ、という音の響きがいかにもピタパンに
お似合い という感じで好きなのだ
ときおり彼は 誰もいない四丁目の団地の下で
夜更けすぎに声に出して言うことがある
ピ・タ・パ・ン

苦しい時には部屋の掃除などできないという人と
苦しい時こそ掃除したいという人の二種類が
世間にはいるが
彼はどちらかといえば幽靈を信じている方の人だ

幽靈だけではなく
UFOも地底人もケムトレイルもあると信じているが
ただ唯一 悲しい気持ちで食べるラーメンだけは
信じていない
ラーメンは幸福だ豚や鷄やその親族以外にとっては
そう言うと冗談を言ってはいないのに
みんなが面白いという
かれはちつとも面白くない
せめて幸福に食べればいいのにとおもう

彼はぴったりマグカップ一杯分のお湯を
沸かすことができる まったく測らずに だ
フリーハンドで鍋にそそぐザァバドップドゥポォと

夕焼けを見るようにまっすぐせすじを伸ばして
香水をつける日がある
恋人が選んでくれたものだ
せいけつなかおり きわめてせいけつな

子供の頃は切符を切る人に憧れた あの器具が良い
しかし終電後にどうやって家まで帰るのか
わからなかったからあきらめた
おしいことをしたとはおもっていない

ときどき 彼の心は
友人のところの赤ん坊の指に弄ばれる
あの赤いぐみのように
ぎゅうぎゅうと締め付けられることがある

よく行った本屋も
駅前のレンタルビデオ屋もなくなってしまって
人恋しい夜中にいくところが
ひとつもなくなってしまったからかもしれない
今の若い子はそんな夜はどこにいくのだろう
かんがえても答えは出なくて
聴いている電子音楽だけはやけに眩しい

家に帰ると
溢れるほどの観葉植物たちから水蒸気があがって
へやは真っ白に幻想的なワンルームだった
蛇口をひねってお風呂のお湯を溜めながら
彼は電車で見たひとのことを考えた

酔っているためか
やけに足首から先がうねうねと
動いていたあのおんなのひと
足首から先がべつの生き物みたいだった

彼女の中指でこごっていたあの
ターコイズブルーの指輪はあのひとによく
似合っていた とてもよく
それはそれは 影たちまでもが躍りだしそうなほど

彼は今日 ペンケースを買った
気に入ってではなく 必要に駆られて
単語帳に薔薇が咲いてしまったせいだ

布のやつで チャックのところがばかみたく青い
どうかな とペンを二本ぴたぱんっといれてみると
意外といいじゃん、と恋人が言ったので
うん まあね と急に彼はagreeった

罵られたペンケースは 納得いってはいなかったが
チャックが閉まっていたので 何も言えなかった

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