川の水で珈琲を

 一

 コットンで出来ているトートバッグの中には、好きな詩人の詩集と財布と野菜、それから猫や鳥に遭遇した時のための餌などが入っている。人のいない、近所の公園。公園はちょっとした高台にあり、彼女は子供みたいに膝の上でバッグを抱えて遠くの景色を眺めている。沢山の家々のさざ波と、遠くに東京のビル群が見える。
 空は青すぎるほど、青い。この瞬間、彼女は何者でもない。
 彼女には普段、様々な《肩書き》が付随されている。例えば、娘。もしくは、恋人。友人、生徒、先輩、後輩、同僚、部下、通行人、買い物客……。
 だがこの公園で一人、景色を眺めたり詩を読んだりする時、彼女は誰の何でもなくなる。他者の目が無くなった今、女ですら無くなり、彼女は一個の生命として景色を見つめている。
 ふと足下に視線を落とすと、小さな花が風にそよいでいた。彼女は切り花よりも、土に根を張っている花が好きだ。切り花は思い通りにどこにでも活けられるが、あまりに命が短すぎる。枯れて萎れた花を見る悲しみは、切り花を活けた時の歓びを遥かに凌駕してしまう。
 土の上で枯れた花は、土に戻れる。その安心感がある。土に戻る限り、彼らの生命は無くならない。小さな枠組みから解き放たれて、大きな大きな生命の元の中に戻るのだ。
 そんなことを考えていると、足下の黄色い花を揺らしていた風が、彼女の散髪したての髪の毛を確認するようにうなじを撫でた。ぶるると震えて、彼女は立ち上がる。少し冷えて来た。帰って夕食の支度をしなくちゃ。

 二
 ノイは星空を眺めている。手元に星座辞典がないから、どれが何の星かはわからない。一番光っている星が北極星。それだけ。直に座っている地面に生えている草が、ちくちくと掌を刺す。手の甲を小さな何かが歩いている気配がしたが、ノイは何も変わらず星を見続けている。 
 この世界では、車や飛行機は過去の産物だ。より高度で環境に優しいテクノロジーによって、人々は行きたい場所には一瞬で行けるようになった。
 だがノイは何処にも行かない。いつもこの草原と、家の往復だ。家では祖父と二人暮らしで、祖父はいつも詩を書いている。二人暮らしと言っても、彼らは家族を失ったわけではなく、家族の中で何処にも行きたくないのが祖父とノイだけなのだ。両親も妹も祖母も、世界中のありとあらゆるところへ旅をしている。
 ノイに言わせれば、世界のどこへ行っても、見える星空は一緒だ。草の匂いも、蟲たちが手を這う感触も、髪をなびかせる風も。
 それこそ、風は世界中を旅してきている。だからノイは風に旅の土産話をねだる。風は時間があれば草原を旋回しながら、遠い異国の色とりどりの家の話や、その地方で流行っているちょっとした笑い話を聞かせてくれる。
 時間がない時は? 時間がない時は、紀行本をどこからか持って来て、ノイの膝の上にぽんと投げ出す。
 《人間も何処へでも行ける時代になった。人に話をねだっていないで、お前もどこへでも行けばいいだろう》
 風はそう言うが、ノイは首を振る。僕は此処にいて、君たちの見て来た世界の話を聞きたいんだ。
 夕食の時間が来ると、祖父が呼びにくる。
 「ノイ。食事が出来たぞ。食べるか」
 ノイは少し悩んで、立ち上がった。うん、戴きます。まだお腹がぺこぺこというほどではないけれど。
 ノイは祖父と向かい合わせでする食事が好きだ。

 三
 月収十八万円じゃ、結婚なんて無理よ。子供でも出来たらどうするの?
 母は彼女にそう言った。彼女は窓の外を見ている。
 聞いているの? 聞いているよ。
 彼は会社に勤めていて、それがどういう仕事なのかは細かくは知らない。彼の好きな仕事。やり甲斐のある仕事。彼女が知っているのは、それだけだ。
 「彼も彼なりに、一生懸命やっているんだけどね。でも会社の取り決めだから仕方ないのよ」
 「一生懸命やっているったって、結果がついてこなきゃ意味がないじゃない。仕事を変える選択肢は、彼にはないの?」
 「彼は今の仕事が好きみたいだから」
 母はまだ何かを言いたそうだったが、彼女は話を切り上げた。これ以上、母の声を聞いていたくなかった。
 凄く優しい人なの。
 そう言った時に母は、優しいだけじゃ世の中やっていけないのよ、と言った。苦労するのは、あなたなの。
 じゃあ優しくもない、人を踏み台にしてでもお金を稼ぐ人が偉いの? そう言う人と結婚して、冷えきった家庭を作ることが幸せなの?
 彼女は思いをことばにしない為に、下唇を噛んだ。飲み込んだのだ。言うべきではないと思ったから。「お父さんやお母さんみたいに?」
 彼女の家はそれなりに裕福だった。父は良い大学を出ていたし、商社に勤めていて出世コースにもきちんと乗っていた。父の収入のおかげで彼女と母は貧しい思いをせずに、ここまで暮らしてこれた。それは事実だ。
 だが父は子供たちに関心もなかったし、家にも帰ってこなかった。外に恋人がいた。母は夜中になるといつも掃除機をかけた。ガンガンと、壁や箪笥にノズルをぶつけるようにして、小さな声で父への文句を口にしながら。
 それは今でも彼女が掃除機を嫌いな理由のうちのひとつだ。
 彼女は夕食を作り始める。母が強く扉を閉める音がした。遠い異国の戦地で起きている、爆発音のような音。一瞬頭に昇りかけた血を、おそるおそる息を吐いてゆっくりと下げる。溜め息と深呼吸の、ちょうど中間のような息で。
 蛇口を捻ると、ざあと水が出た。冷たい水で野菜を洗う。指の腹でごしごしと泥を落とすと、水は固形を保たず、彼女の指や野菜の形をなぞりながら、泥と一緒にシンクの奥へと流れていく。
 俎の上に根菜を乗せて、ゆっくりと包丁の刃をいれる。すとん、と心地良い音と共に、野菜は形を変えた。

 四
 タカギは森の奥で川を見たと言っていたが、ノイは未だにそれが本当かどうかわからない。タカギは数年前に死んでしまったし、ノイは森の奥へ入らないから。
 タカギ曰く、綺麗で穏やかな川が流れていて、その上に小さな橋が架かっているのだという。ノイは森の奥へは行かないが、眠る前に時々その川を想像する。清廉な水の流れに冷やされた空気と、その上で沈黙している橋、透明な水の中で尾びれを揺らして、何かを見つめる魚の美しい目にいたるまで。
 今日のスープも美味しかった。祖父の作る料理がノイは好きだ。幾つかのメニューのレパートリーを、祖父とノイの囲む食卓はぐるぐると巡っている。カレンダーに描かれた概念としての一週間のように。もしくは環状線の列車で働く、白い手袋をした車掌たちのように。
 一日として同じ月曜日が無い、そしてひとりとして同じ車掌がいないように、祖父のスープや煮込み料理も少しずつ味が違った。晴れている週もあれば、雨の週、曇りの週もあった。ノイはその全てを慈しむように、味わって胃に落とし込む。毎日違う世界各国の料理を食べるのも良いが、毎週同じメニューを食べるのも悪くない。
 ノイがこの肉体を離れる時に思い出すスープは、何年の何周目のスープだろうか。
 今夜ノイはスープ皿の上にスプーンを渡して、ダイニングテーブルの上に小さな川と橋を作り出した。ふかふかのベッドの上で、ノイはスプーンの橋から足を滑らせて川に沈んでいく自分を想像する。轟々と水の音が耳の中に大量に流れ込んで、美しい銀色の鱗を持った魚が静かに尾びれを揺らしているのが見える。
 口の中はスープの味で一杯だ。ざばあと音がして、息苦しさが消える。ノイは掬われたのだ、巨大なスプーンに。
 スプーンの上でぜえぜえと息をするノイを、巨大な祖父が見つめていた。
 「ノイ、そんなとこで何しているんだ?」
 タカギのこともスプーンで掬ってあげられれば良かった。ノイは半分眠った頭の片隅でそう考えたが、それもやがては靄がかって夢の雲に飲み込まれる。翌朝にはすっかり忘れているであろう小さな悔いは、夢の雲に飲み込まれてノイの頭上に雨となって降った。イメージの断片と思い出の切れ端で出来た雨に打たれて、ノイは晴れた日によく干した綿布団のような夜の静寂へとゆっくりと沈んでいく。

 五
 ふかふかの夜の静寂へどこまでも沈み込んで、向こう側へ抜けると世界はひっくり返って朝になった。ちちち、ちゅんちゅん。目覚ましよりも先に鳥の声がして、それから目覚まし時計がヒステリックに騒ぎだす。早朝の小鳥の囀りは、柑橘類の馨りがした。
 なんだか不思議な夢を見ていたような氣がするけれど、内容までは思い出せない。起きて布団を畳むと、コップに一杯の水を入れてゆっくりと飲んだ。町も目覚めたてで、窓の外はまだ動きにくそうだ。
 リビングへ行くと、昨日の夜、自分でラップをかけた料理が手つかずで、申し訳無さそうにダイニングテーブルに佇んでいた。彼女は皿の上のラップをそっと撫で、あなたが申し訳無さそうにしなくていいのよ、と小さく呟く。
 机の上のメモも、触られた形跡もない。
 《さっきはごめんなさい。チンして食べてください。何か食べないと、身体に悪いからね》
 母は機嫌が悪くなると、全てをストライキする。そして彼女にわからせるのだ。娘が母親に逆らうということは、どういうことなのかを。
 彼女はその戦法にはすっかりうんざりしているが、それでも謝る。なぜ謝るのかはよくわからないが、謝らないとなんだかお母さんが可哀想な氣がするから。自分も同じくらい、可哀想だと思ってもいたがけれど。
 さっさと準備をして扉をあけると、彼女はうんざりを振り払うようにして出掛けた。
 電車に乗って携帯を取り出すと、彼からのメッセージが液晶画面に映し出されていた。
 《おはよう! 今日も良い一日を》
 彼女は返信を打つ。がたんがたんという、電車の車輪が枕木と戯れ合う音にリズムをあわせて。
 《おはよう。よく眠れた? すっごい晴れてるね。今週末は何処かに行けるといいな》
 送信ボタンを押して、スマートフォンをコートのポケットに仕舞う。長閑な風景が流れていく。ポケットの中で硝子と鉄で出来た通信機器が、その小さな身体を震わせる。彼女の小さな唇が、春風の馨りに目を覚ました桜の蕾のように、そっと綻ぶ。ポケットからスマートフォンを取り出して、細い指でスクロールすると、なんだか申し訳なさそうな文字列。
 《今週末は出張で、会えそうにない。ごめんね》
 彼女は薄い硝子の奥の文字列を、朝ラップにしたようにそっと撫でて、心の中で呟く。
 あなたが申し訳無さそうにしなくていいのよ。

ここから先は

14,257字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?