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文系学問の存在意義を説明します

You Tubeで「日経テレ東大学」の「Re:Hack」という番組に、慶應義塾長 伊藤公平さんが出演し、ひろゆきさんやイェール大学成田さんと「文系学問の存在意義」について熱い議論をしていた。

これについて、問題は深く問われていたが、一定の納得いく解答まではたどりつかず終わっていたので、わたしは1つの意見を述べてみたい。

問題提起

ひろゆきさんは、文系学問は理系と異なり、確固たる「知識」が積み重なっていかないという点を指摘し、リソースの無駄なのでは?と問題を提起していた。(ウクライナ侵攻を予期できなかった教授を例に。結局個人がそう思う、というところから出ない)

これに対して、成田さんは、真理を確定するような理系学問と、文系学問は方向が異なると述べ、文系学問は、われわれが世界について考えるときの概念を作ることに役割があることを指摘。実際現代の人々が社会運営で使っている多くの言葉は文系学者から生まれたという。

さらに、成田さんから、大学は、売上や利益、顧客数などわかりやすいKPIがある企業経営と異なり、目的や目標がわかりづらいという問題提起も行っている。

これに対してひろゆきさんは、大学は明確な目標がないにしても、研究者たちが研究対象を見つけたり、深い研究ができるような資源を確保するというインフラ面を提供することが重要な使命であり、金を稼ぐことが明確な目標だと述べた。

慶應塾長は、金儲けは大前提であり、最も重要なのは「社会をリードする人材を作る」というようなことにあると少し漠然としたものであった。

大学の存在意義は「人間的な生の意味と価値の普遍的構造」の探究

さて、これを受けて、私は大学の存在意義を考えてみたい。

実は、私が修士課程で学んだ哲学は、まさにこのような学問の使命について検討する領域であった。

理系学問は、たしかに真理を突き止めることを目的としていると言ってよいだろう。塔の上から紙を落としたらどこに落ちるか正確に予測するようなイメージだ。

一方、文系学問は、科学の外を扱う。

つまり、以下のような問いだ。

科学はなぜ大事なのか?

本当に真理に近づいているのか?

科学が真理を解明するという保証は?

真理とは何なのか?

真理を突き止めて、私個人の人生に何になるのか?

何のために生きるのか?

存在とは何か?

なぜなにもないのではなく何かがあるのか?

などなど。

こういう科学ゲームを成り立たせる外のカオスな世界に目を向けているのだ。

私達は、客観的に世界がどうなっているかというような話より、もっと切実な主観を生きてる。

つまり、喜怒哀楽に満ちた、「私」だけの世界を生きている。これを実存という。

幸せの絶頂や怒り狂っているときに、世界がどうなっているか、宇宙の果に何があるのかなどの重要度はないに等しい。

こうした問題提起をしたのはエドムント・フッサールだ。以下、引用しよう。

《学問的で客観的な真理というものは、もっぱら、世界、すなわち物理的および精神世界が事実として何であるかを確定することだとされてきた。だが、もし諸学問がこのように客観的に確定されるものだけを真理とみなし、また歴史が、精神世界の一切の形態や人間の生活を支え規定するもの、理想や規範といったものは、つかの間の波のように形づくられては消えゆくものだということ、(略)また、つねに理性は非理性となり、善は禍悪へと変わりゆくものだということを教えるにすぎないものなら、世界と世界に生きる人間の存在は、真に意味をもちうるだろうか。》(エトムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第2節)

フッサールの現象学の理念は、本質観取という哲学的な方法にもとづいて、人文的領域における普遍的学の可能性を志向するものである。

すなわちそれは、いわゆる学問の営みを、単なる真理の探求からも、認識や価値についての相対主義的議論や形而上学的議論からも解き放ち、哲学を「人間的な生の意味と価値の普遍的構造」の探究へと向け変えるべく構想されたものである。

これは竹田青嗣さん、西研さんのフッサール解釈でも述べられている。私もこのような学問観に強く同意している。

つまり、文系学問は、わたしたちの意味体験としての生のあり方を考察し、価値あるとはどういうことか、そういうことで普遍的な了解を目指し、科学や真理の探求すらも位置づけるような、個々の生に根付いた最も重要なイシューを扱うものなのである。




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