見出し画像

承認問題もベーシックインカムで解決

最近、通り魔的な事件、巻き込み自殺、みたいな無敵の人の存在が目立つ。

もう人生終わったから、死ぬ、一人で死ぬのは怖いから誰かを巻き添えにして。あるいは、この自分を苦しめた社会にダメージを与えたい、みたいな怨念を感じる。

こうした問題がなくなるにはどうすればいいか?

私は「ベーシックインカム」でだいぶ解決されるのではないかと考えている。

東大入試の殺傷事件は「社会の画一的な成功像なるもの」が依然としてあることが問題の核心だと思う。

容疑者は、その「成功像」から少し逸れただけで、自分の価値を信じれなくなり自暴自棄になっている。(これは中国でも大きな問題であり、以前ここでも書いたことがある)

もっと深く考察してみたい。

ざっくりと言われる「承認欲求」の問題だが、これはもっと平たくいうと、「他者から自分を価値ある存在と認めてほしい」という欲求であり、それは、「本当にそう認めてもらえているという実感がある」ことで満たされる。

そして、ある人の承認欲求が満たされているかどうかは、その人が意識している他者たちの「目」が決める。これは、JPサルトルが看破したことだ。我々の「自我」というのは、<ある他者にとっての「ある人」>という形の集合なのである。

つまり、あなたが接している周りの人の目なのだ。これは何も実際に、頻繁に会う人だけでなくこれまで会ったことのある全ての人や、会ったことのない人でさえ、もしその人に会ったらどう思われるか、など広がりがある。

自分のアイデンティティを支えるのは「自分」という存在ではなく、他者の「目」だ。家族や友人など身近なところに大きく影響を受けるだろうが、それだけではない。

前置きが長くなってしまった。

承認欲求で死にそうになっているなら、「人間関係を完全に断ち切れる可能性があること」は一つの「救い」の可能性になるのではないか。

あの人から見た「私」がどんどん価値を失っていく。

それに耐えられなくなり、その社会的な欲望が、生物的な生きたいという欲求をも超えて、死を選ぶ人がいる。

であれば、その自己評価を作っている「目」からフリーになるという方法もあるのではないか。

例えば、会社にいきたくないというのは、そこで関わる人たちに「どう見られるか」という関心が基礎にある。

この場合、単純に「会社を休む」というようなやり方では根本的な解決にはならない。これが重要だ。

会社を休むための連絡をしなくてはいけないし、会社の人たちの見方が変わる恐れをある。彼らの「目」からは逃れられない。

長期で休んだとしても、復帰すればまたその「目」があるという確信があれば同じことだ。

やるのであれば、完全に(一旦)彼らとの関係を断ち切るなやり方が必要になる。

では、仮に思い切ってそういう「ぶっち」みたいのができたとして、それで解決できるか?

そうでもない。

ここも深く考える。

少し考えれば、もしそうしたら、収入が途切れるので、生きていけなくなるのがわかる。

無料で衣食住を提供してくれる人がいればいいが、そういう状況にある人は少ないだろう。

また、親や親友に頼むとなれば、それは今度は彼彼女らの「目」を気にして、自己価値の低下を懸念することになる。

では、生活保護で解決されるか?

実はここにも親の目と同じことが生じる。

いわゆるスティグマ問題といえばそうかもしれないが、結局、生活保護申請するには、役所の人とやり取りをしたり、親族に連絡がいったりなど、いろいろな人の「目」にさらされる。

そして、生活保護のお金がもらえるまでのタイムラグも地味にどれくらいあるのか不透明でわかりづらく、ハードルを高めている。(思い立ったら即時もらえなければ意味がない)

もう全ての人の「目」を断ち切るために「一時の恥」は我慢できる、というのであればいいが、そこまで強くないから、いろいろな問題が起きているのだろう。

では社会はどうすべきか?

それは簡単だ。

ベーシックインカムにしてしまえばいいのだ。

全員にお金を配って、基本的に働かなくても生きていけるようになれば、完全に解消される問題だ。

申請をしたり、何かの条件を調べるなどしないで、一律で配る。

一方的に配る。

誰かの「目」で生殺与奪権を握られることがなくなる。

本当に、ベーシックインカムがあれば根本的に人々の人間関係や実存のあり方が変わると思う。

もちろん、私は上記で述べたような死を選ぼうとするような窮地に陥ったことはないので、適当なことはいえない。

ただ、それを選ぶかどうかは別として、あらゆる人間関係から解放される「選択肢があること」には大きな意義があるのではないか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?