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有限性とゲーム没入の反比例

人は年をとると、この<世界>に慣れて、だいたいのことを理解したつもりになる。

子供のころなどは、<世界>についてよくわからないので、想像が無限に膨らむし、どきどきわくわくが絶えない。

大人になってくると、だいたい<世界>はこういうものだという確信を強めていく。この確信という表現が重要。真理を掴んだわけではなく、ただ、その人が主観でそう思い込んでいるだけ。

これが有限性だ。つまり、世界がどんどん言語化され、有限になっていく。

30歳にもなると、だいたい<世界>を把握しきったというなんとなくの飽きが出てくるかもしれない。人によってはそれが40歳とか幅がある。

飽きが出る、というのはつまり、これから死ぬまでにありうる喜怒哀楽は、これまでに体験したことのある喜怒哀楽と同程度のものだろう、というような何となくの見切り。

30歳までに経験した幸せとか、悔しさとか、悲しみ、驚き、嬉しさなど、まあそういうものが形を変えて今後もあるのかな?くらいの見通しになる。

もちろん、人によっては、いやいや自分はまだ<世界>の何もしらない。これから今まで経験したことのない喜怒哀楽を得られるだろう。だからもっといろんな方面で活動していこう!というマインドを持っている。

さて、
今日、書いておきたいポイントは、
有限性を高めたほうが、人間社会では活躍しやすい、ということ。

極端な例でいえば、野球にはまってプロ野球選手になることにコミットする意志が強いほど、成功しやすい。
一方で、世の中野球だけじゃない。まだ見ぬいろんな可能性がある。だから、いろいろやっていこう、とフラフラしていれば、1つの領域にコミットすることはできない。

だから、今社会で結果を出せていない人も、落ち込むことはない。1つにコミットできないのは<世界>に対して勝手な有限化を行っていない1つの態度ともいえる。ある種そういう態度にコミットしている。

友人で早くから弁護士になることを目指し活躍している人がいるが、彼は社会では成功者だが、早くから有限化し、他の可能性を模索することはあまりできなかっただろう。

これらに普遍的な善悪の基準はない。その人次第だ。

ただ、何にもコミットしないというものは一般的には悪く捉えられがちだが、それも<世界>の無限性を考えれば、ごく自然な態度ともいえるということを理解してもらいたい。


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