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意識をコンピュータにアップロードしてもしょうもない

脳科学者やロボット工学者などの一部で、意識をコンピュータにアップロードできると主張したり、その実現を追求していると称する人たちがいる。

しかし、本質的な疑問が2つある。

何のためにやるのか?

そして、

意義のある形で実現できるのか?

ということだ。

今回は、意識をコンピュータにアップロードするという発想に対するこの2つの本質的な問いについて考えたい。

何のために意識をアップロードするのか

ジョニー・デップ主演の映画「トランスセンデンス」では、死に瀕した科学者の意識がアップロードされ、人工知能が次第に進化して人類の脅威となる世界を描いている。

これは、天才を生かすというような目的でアップロードしたのだろう。


このような意識アップロードの根本的な考えは次のようなものだ。

つまり、脳の物理的な状態を完全な形で、同じように再現できれば、そこに意識が宿る、ということ。

この「完全な形」をどう捉えるかは程度の問題がある。物理学については全くわからないが、仮に今わかっている物理の最小単位が素粒子なのであれば、脳を素粒子レベルでその状態を捉えることができることが第1の条件だ。

そして、次に、それと同様な素粒子状態を制作するというのが2つ目の条件となる。この2つの条件は果てしなく困難な作業に思える。

ただ、意識アップロードは、必ずしも、素粒子状態までは必要ないかもしれない。基本的な要素やそれらの結びつき、相互作用などを模倣できれば、意識は再現できると考えているのかもしれない。

いずれにしても、ある時点での物理状態を正確に捉えて、それを再現するという考えは同じだ。

では、これをベースに考えていきたい。

まず、言葉の定義をしよう。

仮に、今の私の素粒子状態Aと全く同じ、素粒子状態のBを作るとしよう。前者を「身体A」といい、後者を「身体B」とよぶ。そして、「身体A」の状態を把捉し、それを基に「身体B」制作が完了した時点を、「意識アップロード完了時」と呼ぶ。また、私が生まれてから交流をしたことがある人々を総称して「知人たち」とよぶ。知人たちは、私のことを浅くも深くも知っている。また、私のことを知らない沢山の人達を「第三者たち」と呼ぶ。

もし、「身体B」が完成したら、おそらく私(身体A)の横にいる身体Bにも、Aと同様の記憶や意識が宿ると想像される。

しかし、AとBは、世界における存在場所が1ミリでもずれている(重なっていることはありえない)ので、意識アップロード完了時で、そのあり方は分岐する。つまり、各自が異なる意識を生きることになる。

ここで、Aは、私だ。だから、これまでの子供の頃からの記憶を辿れるし、そこからずっと同じ自分を生きているという確信がある。同時に、Bの方も同じように考えているだろう。

身体Bは、私(A)を知る友人やあらゆる人(知人たち)と、なんの誤解もなく、不自然さもなくコミュニケーションをすることができるだろう。過去に一緒に遊んだ記憶、言葉使い、将来の目標などなど、全てオリジナルのAと同じような振る舞いができる。

では、この意識アップロードにより、何が起きるのか?

私(身体A)、身体B、知人たち、第三者たちの目線で考えていこう。

オリジナル(身体A)からの視点

この身体B制作がどのような状況で行われたかにもよるが、あるプロジェクトとして、身体AのすぐそばにBが発生するというような場合を考える。

私(身体A)からすると、自分と同じ意識体験を持つと想定される人間が目の前に現れることになる。

「意識アップロード完了時」からの体験は異なるが、それまでは全て同じ体験をしてきているという意識状態だ。

この後、世界に自分と同じ人間が生きていくのか、なんかややっこしい問題が起きなければいいけど。。みたいな不安があるかもしれない。

なぜなら、今後、それぞれがそれぞれの行動の責任を負うことになるからだ。「意識アップロード完了時」から、二人が同じ家に帰宅すると考えたら、めんどくさそうなことは予想される。

身体Bからの視点

身体Bも実は、上記のAと全く同じなのだ。

「意識アップロード完了時」までの記憶は共通なので、どっちがオリジナルかも実はわからなくなるだろう。

知人たちからの視点

知人たちは、身体Aでも身体Bでも、もとのオリジナルがやってきたと思って、これまでの延長上でコミュニケーションをするだろう。

考慮すべき2つの特殊な状況がある。

まず、1つは、AとBが同時に現れたときだ。そのとき、知人たちは、驚くだろう。しかし、そのときはそのときで、実は双子がいたとか、素粒子状態を再現できる技術が本当にできたんだ!と信じたり、適当な解釈をするだろう。

もう一つの特殊ケース。これは、Aがある偶然により、死んでしまった場合だ。その場合、Bが生きていることで、知人たちは、オリジナルのAが生きているという事態を事実と認識するだろう。ただし、「意識アップロード完了時」以後の出来事については、AとBで異なるので、そこの齟齬はありえる。

第三者たちの視点

第三者から見れば、「意識アップロード完了時」前にAのことは知らない。まだ知り合っていないのだ。なので、A或いはBに出会うのかで状況が変わってくる。Aと知り合って、その後にBと会うと、「意識アップロード完了時」前のことについては、同じことを語るだろうが、その後の経験については、異なる。数ヶ月程度ではあまり変わらないだろうが、数年も経てば、違う人生を歩んでいるので、経験が異なる。

これも、AとBのどちらかだけと接していれば起きない問題である。

誰が得をするのか

以上、私のコピーを作れるとして、誰が得をするのかを考えてみたい。

正直、知人たちや第三者たちがメリットを受けるかは偶然的だ。私が一人だけ存在するときよりも、二人いたほうが活動量が増えるので、それが社会のためになれば良いと考えられるかもしれない。

1つ言えることは、上記のAが死んだ場合の特殊ケースだ。

Aは自分が死んでも、知人たちや第三者たちは、その死に気が付かない。Bが生きていれば、Aが生きていると確信する。

だから、Aの視点で考えれば、自分が死んでも周りに悲しい思いをさせたくないと考えれば、コピーBを作る意義はあるかもしれない。

ただ、ポイントとして抑えておく必要があるのは、Aの意識体験として、Aは死を経験したということだ。

瞬間移動の思考実験

よく聞く思考実験に次のようなものがある。

瞬間移動で、地点1から地点2にテレポーテーションするというものだ。

これの原理は、地点1で身体Aの素粒子状態を把捉し、地点2でその情報を基にその素粒子状態を再現し、最後に地点1のAを消し去る、というものだ。

これは、知人たちや第三者たちにとって、Aは生き続けているので、社会的にみれば、プラスマイナスの影響は0だと言える。

しかし、実は大きな問題がある。

それは、オリジナルのAは削除されるというものだ。

つまり、そのAとしての意識の流れはそこでなくなる。削除のされ方によっては大きな痛みを経験するかもしれない。

これを「意識の流れの終わり」と呼ぼう。

Aとしては、「意識の流れの終わり」を許容できないだろう。社会的には連続性を保てるが、自分側は殺されるのだから。

もちろん、テレポーテーションでAも残しておくことは可能だが、そうすれば、テレポーテーションごとにコピーが増えていってしまう。

機械のハードボディに意識をアップロードしたらどうなるか

もう一つの思考実験として、今の素粒子状態の本質的なものを取り出し、それを機械にアップロードするというものだ。これは映画「トランスセンデンス」で描かれていたようなもの。

完全に同じ素粒子状態のBを作るのであれば、それは人間の身体なのでいつかは死ぬだろうが、機械のハードボディに移植できれば、それは半永久的に生きられるかもしれない。

その場合には、上述の全く同じ素粒子状態Bを作る場合とどのような違いがあるか?

この機械へアップロードされた意識を身体Cと呼ぼう。

まず、身体AとCでは、「意識アップロード完了時」以後の意識体験の構造が変わってくるだろう。

そもそも、意識体験というのは、その身体と表裏一体だ。手足や各種感覚器で「いま、ここ」の体験は成り立っている。それが、鉄の固まりに置き換われば、そもそものクオリア的な体験が異なる。目が望遠鏡のような高性能なものになったり、転んでも無傷なステンレスな身体になるなど。

(それゆえ、原理的にアップロードなどできないのだと思うが)

なので、私Aからすると、Aが死んだ後もCが残るというのは、「意識アップロード完了時」までの記憶を持つが、その後は、他者としていきる何か、というような存在になるだろう。

Cに対しては、このように意識体験が根本的に変わるため、知人たちも違和感を抱くだろう。

また、Cが生きていても、先の例と同様に、Aはいずれ「意識の流れの終わり」を経験する必要がある。

よくある素朴な意識アップロードでは、AからCへ意識が移行するかのようなイメージを持つが、なにかものが左から右に移動されるように移るようなものではない。

もし状態を写し取りそれを再現するのであれば、オリジナルとコピーが両方生きていくか、オリジナルを削除するということになる。

Aは人間の身体である以上、「意識の流れの終わり」は避けられない。




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