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教育におけるAIの限界(人の「目」の欠落)

教育とAIについて、最近よく考えており、noteにもいくつか記事を書いた。

ある学習者が学ぶ場合、

その「成果」は、「学習プラン(調整を含む)」×「実行量」で表すことができる。

学習者の現在のレベル、目標、学習ペースなどを考慮して最適な「学習プラン」を作り、定期的に調整していく、という作業は、着々とAIで代替されていくだろう。(代替されるだけでなく、精度も高まる。必要な変数をもれなくとり、多数の経験から最適な提案ができるから)

ただ、学習は、むしろ「実行量」のほうが重要だ。

AIで完結するサービスは沢山ありうるが、教育の大きなハードルはモチベーションを維持することなのである。

人に見られていないと、自主的に学習できる人は多くはない。

学習者のモチベーションをAIで刺激できるだろうか?

AIにカメラやセンサーで、学習状態を監視されていて、怠った場合にアラートが出るようなものがあったとしても、おそらく数日もすれば、慣れてしまい、無視できるようになる。

人の「目」、特に具体的に知っている人、しっかり見ている「目」の存在は大きい。

映画herで、主人公はsiriのような女性の声との交流で恋愛感情を抱いていたが、そんなことはあるだろうか。まず第一のハードルは、そこまで違和感なく人間的なコミュニケーションができるか?ということ、そして根本的なネックは、われわれはAIとわかっている対象に感情を抱くか、ということ。

哲学者のサルトルが看破したように、われわれは「見られる」ことで自己の物語を編み上げていく。AIに見られているという感覚を抱くことはできない。

もし、モチベーションを触発できるなら、AIだけで完結する教育サービスが主流になるだろう。

しかし、上述の理由で、現状はまだ難しい。

モチベーションを喚起する、コーチングのような役割として人がまだまだ必要。

一方で、外国語教育でいえば、ネイティブと一緒に単語や文章を読んだり、音読、リピーティング、シャドーイングなどのトレーニングをファイシリーとするような単純な練習相手はAIに置き換わるだろう。

今後、教育に必要なことは、

AIが乗り越えられない一人の物語がある人間の「目」が、どこまで効果が及んでいるのかを把握し、AIが得意な部分を置き換えつつ、人間がすべきところを明確化すること。

ライザップが思い切って、ダイエットトレーナーを、栄養学やトレーニングの専門家ではなく、コミュニケーションの達人を使っている理由もここにある。

私も教育従事者として、人間とAIをうまく組み合わせながら時代にあったものを生み出したい。

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