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われわれの身体性を超えた価値の伸びしろ空間がない

前回の記事に続き、現代の経済社会の問題について考えたい。

1970年にフランスで刊行されたジャン・ボードリヤールの著書『消費社会の神話と構造』。

概要は以下、Wikipediaから。

本書では、大量消費時代における「モノの価値」とは、モノそのものの使用価値、あるいは生産に利用された労働の集約度にあるのではなく、商品に付与された記号にあるとされる。たとえば、ブランド品が高価であるのは、その商品を生産するのにコストがかかっているからでも、他の商品に比べ特別な機能が有るからでもない。その商品そのものの持つ特別なコードによるのである。つまり、商品としての価値は、他の商品の持つコードとの差異によって生まれるのである。
現代の高度消費社会とは、そういった商品のもつコードの構造的な差異の体系である。ここで注意しなければいけないのは、ヴェブレンの言う「顕示的消費」と違い、単なるブランドの見せびらかしではないと言うことである。たとえば、高級車には高級車、コンパクトカーにはコンパクトカーの持つ記号がそれぞれ存在し、それらを自ら個性として消費するのである。
この様にモノ(商品)を買う行為は欲求充足の他に「自分らしさ」(オリジナリティ)を主張する言語活動の一面があり、他者との差異をつけ、個人のアイデンティティを社会の中に定位させる道具である。これは消費社会において無意識のうちに強制されており、「自分らしさ」の追求は消費社会というお釈迦様の掌の上の孫悟空の様なものに過ぎない。
こうした「記号」という商品の価値が、本来の使用価値や生産価値以上に効力を持つ社会を「消費社会」と本書ではよんでいる。

平たくいえば、戦後、洗濯機のように、それが手に入ることで大きなベネフィットを創造するような消費に対して、自分の物語を確立させるための記号的な消費が勢いを増しているという。1970年のことだが。

この内、前者は身体性に根付く価値といえると思う。

つまり、洗濯機のように明らかに重労働から解放してくれるような価値は、身体に根ざしている。一方で、ブランド品の消費は、身体的なものではなく、社会的であり、記号的である。

現在の経済の問題は、記号的な消費の限界という単純な構造であると言えないだろうか?

身体性に根付く価値であれば、身体という物理的な限界に規定されるため、実体があるといえるが、記号的な消費はもはや幻想的なものだ。

もうこれ以上、価値を安定的に増やしていくようなことはできない。

クライアントにあったソフトウェイがクラウドに移動しても、われわれの生活はそんなに変わらない。

ユーザデータを分析して、より便利なものが作れるとしても、もはやインパクトは小さい。

経済競争が激化し、世界中で投資マネーが新たな投資先を探しているが、そういう本質的でないちょっとした利便性しか伸びしろがない。

われわれが感じる価値は、基本的に身体性に由来する。

だから、記号的な消費は限界がある。

でも、真っ向から、宇宙に行ったり、ミクロの世界に突っ込んでいけば、そこには何かしらさらなら感動があるかもしれない。




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