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ダルビッシュ有と生まれの偶然性

このnoteの軸テーマとなっている「生まれの偶然性」。

ダルビッシュ有さんが、自分はたまたま身体に恵まれ、速い球が投げられて、スライダーがうまく投げれた、などという話をしていた。

その前提には、野球というスポーツが社会に存在し、それに携わる人が沢山いて、それに子供の頃に触れて、うまく軌道に取れた、そういう偶然的なことがたくさんあった、と。

それに気づいたダルビッシュさんは、価値があると思いこんでいた自分というものが崩壊した、という。そんな凄い存在ではない、たまたまだった、自分の力ではない、と謙遜する。

多くの人は、このダルビッシュさんの発言に対して、人間力が凄い!とか、謙虚だ!みたいなことを思うだろう。

ただ、私は、それは謙虚でもなんでもなく事実だと思う。

もちろん、様々なもがき苦しみがあったとは思うし、自由意志でそれらを乗り越えてきた、というような見方もある。

ただ、やはり、なぜ私はわたしなのか?という神秘。
ガッツで乗り越えるのも、妥協するのも、その原因は生まれにあるように思える。もちろん、決定論ではない。ただ、実存的に内省すれば、この謎、神秘にたどり着いてしまう。

多くの人がこのような境地にたどり着けば世界は寛容で、誰もが生きやすくなるだろう。

アメリカなどでは、そのへんは一般的にも理解されている。テニスの大会などでの優勝スピーチは必ず、大会の観客、主催者、ボールボーイ、スポンサーに感謝をする。自分が成功者としてポジショニングできるのは、様々な支えがあってこそ、なのだ。

マイケル・サンデルの『運も実力のうち?』が評価されているように、今後もこういう考え方が加速することは良いことだ。

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