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「月」はそれを見ていない時にも存在するのか?現象学的に考察

茂木健一郎さんが、You Tubeでこの話題について話していたので、私も語ってみたい。

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ジョン・ホィーラーは、「どんな素粒子の現象も人が観察してこそ初めて本物の現象になる」と述べた。

デビット・マーミンは、それをこう言い換えた。

「誰も見ていないなら、そこに月なんて存在しない」と。

アインシュタインは、インドの詩人・タゴールに会ったときにこう聞いた。

「私が見ていないとき、月は存在しないのですか?」

「その通りです」とタゴールは答えた。

月について、また存在するという時「その事実があったという信念が、それぞれの人の頭の中に存在する」ということになるのではないのか。 

「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしたのかしなかったのか」というのと同じだ。

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以下、私なりに、
「月」はそれを見ていない時にも存在するのか?
について現象学的に回答をしてみよう。

「何かが存在する」とは、端的に言えば、
自分の意識に影響があること、
といえる。

よく、経営の場面で、
「結論が変わらない情報は無価値」
ということが言われるが、
この考え方に近い。

つまり、自分の意識(主観)にとって、影響がないのであれば、それは存在しないことになる。

例えば、(あまり想像したくないが)大切な友人のAが異国の地で苦しんでいるとしよう。

ただ、そのことを私が知らなければ、それは存在しないことに等しい。

しかし、
友達から人づてで、Aのことを聞いたら、そこで存在することになる。
あるいは、定期的に連絡があったが、それがなくなったことで、私が心配しだしたら、友人Aの苦悩が存在することになる。

月があるかないかも、結局、意識(主観)に影響がなければ、存在しないも同然。

見ていないときに、月が存在しないという結論が、私の意識に何か影響があれば正だが、そうでなければ誤になる。

つまり、「私が見ていないときに、月が存在するかしないか」は、その答えがどちらであっても、私に何の影響もないから情報として無価値で、存在しないもの。

仮に、見ていないときに限って、月が変な動きをする、というようなことが観測されれば、それはそれで私や世界中の人間に影響を与えるから、その探求が必要になる。

これは、あらゆる妄想と同じ。

妄想では何でも想像できるが、その妄想に対して、リアリティを抱くことはない。つまり意識に影響がほとんどないのである。

これは、ラッセルの世界5分前仮説にも同じことがいえる。

つまり、
仮に世界が5分前に作られたものであったとしても、
その「5分前に作られたこと」を受け入れられない感受性が、適当に作られた言語的な仮説よりも重大なのである。

では、
物自体や実体といわれるようなものはないのか?
つまり、私が認識していなくても、そこにありつづけるようなものはあるのか?

そう、
つまり、「物自体がある」とか「ない」とかいう言説は、どっちに転ぼうが、自分の意識に、1ミクロンも影響がない。だから存在しない。
(現象学的には、物自体と言われるものがどういう条件で、「私の認識とは別個に実体的に存在している」という確信を成立させるのかを問う。)

ただ、だからといって独我論に陥っているわけではない。

独我論は、自分の主観があるだけだから、死ぬ前に何でもハチャメチャなことをやってしまえ!というような思想を導く可能性がある。

しかし、現象学的に考えれば、
もっとも絶対的な対象の根拠は、意識なのである。
人と共感したり、思いやることが快楽や享楽に繋がり、他者に迷惑をかけることに心理的な抵抗があること、これが自分の意識の中でも最も本質的であり、思考の出発点なのである。



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