解けたらノーベル賞?「世界5分前仮説」を解いてみる

「世界5分前仮説」という哲学者ラッセルによる思考実験がある。

世界は5分前に作られたという仮説を反証できないと、主張する。

いやいや、おれは5時間前に起きたし、10年前に学校を卒業したし、などなど反応があるだろうが、ラッセルによれば、それも「そういう風に思うように5分前に作った」と反論される。

You Tuberのひろゆきさんが、この「世界5分前仮説」が正しくないことを証明できれば、ノーベル賞ものだ、と言っていた。

しかし、この問題は現象学という哲学のアプローチを使えば、簡単に解くことができる。

現象学の考え方

現象学の考え方を理解するには本を数冊読む必要があるので、ここでは要点のみ。

現象学のポイントは、私は自分の主観から外に出られない。ということにある。また、現象学は、「何が正しいか」という認識問題を課題としている。

素朴な世界観において、私は客観的な世界において、主観を持つ個人として生きていると考えている。そして、「正しい」認識とは、客観を私という主観が正確に認識することだと考える。

そこで、現象学の父であるフッサールは問題提起をした。

いかにして主観は客観に的中するのか?と。

私は主観から出られず、どこまでいっても主観の内にある。

であれば、「客観」というのも「主観」の中にあるものだという逆転の発想をした。

つまり、「主観」の中である条件を持つものが「客観」といわれているだけにすぎない、と。

主観はいつまでも主観なのだから、客観に的中することはできない。ただ、主観の中で「客観」と言われているものの条件を考えることはできる、という転換をした。

こう考えると、あらゆる「正しいとされる認識」も絶対的なものではなく、あくまでそれは「確信」であり、いつまでたっても、絶対的な客観となることはない、と理解できる。

ある命題が正しいとはどういうことか

何かしらの命題が正しいとはどういうことか?

「命題」というと難しく感じるが、「ある事柄を言語で表現した文」と考えておけばいい。

例えば、今、私が、本記事の写真のような視覚体験をしているとしよう。それを、「眼の前に氷の入ったコップがある」と記述したとする。これが命題だ。

この命題が正しいと言える根拠は何か?

現象学的に考えれば、主観は客観に的中できない。

それでも、私が「眼の前に氷の入ったコップがある」と主張する根拠は何か?

それは、主観(意識)の中で、自分の意志によっては決して自由に変更できない領域である。これを「底板」と呼ぼう。

「底板」でどうしても疑うことができず、その体験として主観に直接与えられるものが私の生における最終根拠であり、この根拠を疑う意義はない。

もちろん、疑えるが、それを疑ったら私が普段、喜怒哀楽に満ちた人生を生きていることが否定される。

なぜなら、この根拠が生そのものでああり、これがなければ、その疑う自分すら消えてしまうから。

「世界5分前仮説」

「世界5分前仮説」に戻ろう。

「今私が体験している世界は5分前に作られた」と言われても、その命題を支える根拠は見つからない。

つまり、この命題を正しいと判断するには、「底板」に、つまり、主観に直接与えられるものに何かしらの根拠が必要になる。

おれは5時間前に起きたし、10年前に学校を卒業したといことの根拠は、自分がそう思っているというところを起点に、様々な形で根拠を確認できる。

引き出しにあった卒業アルバムを目視して、年度を調べるとか、友達に連絡して、卒業年を確認するとか、今日は5時間前に起きてすぐにLINEでAくんに連絡したから、そのメッセージ記録を見るとか。

こういう根拠に基づき、我々は、「5時間前に起きた」とか「10年前に学校を卒業した」という確信の程度を強めていく。

「今私が体験している世界は5分前に作られた」という命題を支える根拠は何もない。

ポイントは、「今私が体験している世界は5分前に作られた」可能性がゼロではない、ということだ。0.0001くらいの可能性があるかもしれない。

そして、目の前にあるコップも、100%真実ということはできない。ただ、私の主観に直接与えられているから、確信度は高い、ということしかいえない。

どんな嘘でも、それも確信の強度で正しさを表すことができる。世界5分前仮説の命題も、確信強度を高める根拠はないが、絶対間違いといいきることもできない。



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