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日本語の韻律論:75韻律の謎について

 こんばんは。Sagishiです。

 今回は、日本語の「75韻律」の謎について書いていこうと思います。

 日本人にとっては非常に馴染みのある韻律ですが、その内情・仕組みというのは実際のところ謎に包まれている、ということを書いていきます。




1 「75韻律」の謎

1-1 科学的アプローチの不足

 「75韻律」は、万葉の時代(7世紀頃)に成立した、日本の詩歌における韻律型式の1つです。「75韻律」は、日本の詩歌においては支配的な韻律型式であり、俳句や短歌など、複数の詩歌のスタイルを確立しています。

 一般に、五七調だと「力強く素朴な印象」、七五調だと「優美な印象」を与えるなどと言われますが、しかし「なぜそのように我々が感じるのか」、という原因や理由が、科学的に分かっているとはいえないとわたしは思っています。

 少なくとも1,300年もの歴史的な蓄積が「75韻律」にはありますが、科学的なアプローチが進んでいるかというとそうではなく、多くの謎が残されているといえます。


1-2 型式の超長期に渡る保存

 「75韻律」は、現代においてもその力を失っていないです。これは俳句や短歌といった伝統的な詩歌型式が、現代まで生き残っていることからも明らかだといえます。また、

怪異と乙女と神隠し
神は遊戯に飢えている。
烏は主を選ばない
ささやくように恋を唄う
じいさんばあさん若返る
死神坊ちゃんと黒メイド
終末トレインどこへいく?
声優ラジオのウラオモテ
鑑定スキルで成り上がる
気ままに魔術を極めます
花野井くんと恋の病
僕のヒーローアカデミア
異世界行ったら本気だす
夜桜さんちの大作戦
ワンルーム、日当たり普通、天使つき。
月が導く異世界道中

 上記のように、直近の2024年4月に放送されているアニメでは、作品全体のうち約20%が、副題を含めたタイトルに「75韻律」を含んでいます。

 このように、「75韻律」には何らかの優位な効果があるため普遍的に利用されており、現代までその効果が保存されている、といえます。

 これは非常に興味深いことで、たとえば日本語の「は」の音韻は現在は[ha]ですが、過去には[pa]であったり[ɸa]であったりした時期があります。

 また、英語はかつて単語の最初の音節に常にストレスが存在した時代があり、英語の詩歌にrhymeが存在せず、alliterationのみが存在する時代もありました。中国語の四声も、時代によって変動があります。

 というように、日本語に限らず言語の音韻や韻律特性というのは時代によって変化するのが普通です。が、「75韻律」は実に1,000年以上ものあいだ変化していない、あるいは変化していたとしてもそれに気づけていないのかもしれませんが、その効果が現代まで保存されているといえます。

 あまり指摘されることがないですが、言語が変遷するという性質を持つことを考えると、「75韻律」が今日まで保存されているというのは、かなり驚異的で奇跡的なことなのではないかと思います。それだけ強固な韻律効果が、「75韻律」にはあるということかもしれません。


1-3 効果の不明性

 にも関わらず、「75韻律」にどのような効果があるのか、というのは実はあまり議論・研究されていないのではないかと思います。

 ここでは紹介も兼ねて、わたしが知っている範囲で科学的なアプローチをしているの「75韻律」の研究を記載します。例えば、以下のような研究があります。

「7・5 調>5・7 調>6・6 調>4・8調、 8・4 調」の順にリズムが良いと評定される傾向にあるといえる。

単純な単語の羅列であっても五音七音がリズミカルと感じられるということは、(中略)五音七音という音の構成がリズム知覚に影響している可能性を示唆する。

渡部涼子・小磯花絵『五七調・七五調のリズム知覚に関する予備的研究』(2014年)

 渡部・小磯(2014年)の研究は、サンプルにたいしてやや統制的・帰納的な処理をしていると感じられますが、重音節を含まない12モーラ句において七五調と五七調が「主観的なリズムの良さ」に関して有意であることを示しています。

 演繹的な研究としては、桐越舞の「韻律フレーム」論が画期的です。古くからある日本語の韻律論の休止拍説を柔軟に捉え、句構造を休止を含めた「韻律フレーム」として定義することで、和歌において何らかの傾向がないかを調査しようとします。

いくつの韻律フレームで発話するか、どこまでを韻律フレームとしてまとめているのかは被験者によって異なるが、より短い韻律フレームとより長い韻律フレームが交互に繰り返す型が多く認められた。2 つの韻律フレームでひとまとまりという型が基本にあるのではないだろうか。

桐越舞『日本語定型詩の言語リズム型に関する一考察』(2016年)

 何かを明らかにするところまでは至っていませんが、休止拍を含めた句構造にも、長短的な傾向・認知があるのでは、ということを論じており、非常に示唆的な研究です。

 ただ、上記の2つの研究は、「言語の研究」というよりはリズム知覚についての研究とほぼイコールになっているのでは、という疑問がありますし、七五調と五七調がなぜリズム的に優位であるかを明らかにしていません。

(日本語母語話者にたいして)五七調のリズムを含む文の条件では左脳が優位に働き,非五七調のリズムの条件では右脳が優位に活性化していた

福田由紀『五七調音声と非五七調音声聴取時における脳活動の比較』(2013年)

 上記のような脳科学方面からのアプローチも少数ながらありますが、リズムそのものに関する研究がそもそも不足しているといえます。

 このように、「75韻律」がリズム的に良いものだと知覚される、ということは傾向的・歴史的・体感的にはいえますが、それがどのような効果なのか、なぜ優位性があるのか、その理由がどこからくるものなのか、といった詳細については、よく分かっていないというのが実情です。


2 現時点で推測できること

 ここからはわたしの主張ですが、「75韻律」の成立に寄与する傾向というか条件について、現時点で推測できるものを以下に記載します。

① AP境界・統語境界に依存しない
② イントネーション型に依存しない
③ 音節境界に依存しない
④ 母音や子音の配置に依存しない
⑤ ストレスに依存しない

 すべて否定形の条件ですね。これらがどういうことか説明をします。


2-1 AP境界・統語境界に依存しない

 7モーラ句や5モーラ句にどのようなAP(アクセント句)境界・統語境界が存在しても、「75韻律」の効果は発生するとわたしは予想しています。これは上記で出した渡部・小磯(2014年)の研究と整合的です。

 以下のようなAP境界・統語境界が異なるような事例を作成します。

・七五調の事例
トナカイ・コアラ/カモ・タヌキ
トナカイ・コアラ/タヌキ・カモ
コアラ・トナカイ/カモ・タヌキ
コアラ・トナカイ/タヌキ・カモ

カキツバタ・ユリ/サクラ・ウリ
カキツバタ・ユリ/ウリ・サクラ
ユリ・カキツバタ/サクラ・ウリ
ユリ・カキツバタ/ウリ・サクラ

ユリ・サクラ・ウリ/カキツバタ
ユリ・ウリ・サクラ/カキツバタ
サクラ・ユリ・ウリ/カキツバタ
サクラ・ウリ・ユリ/カキツバタ

※中黒(・)がAP境界、スラッシュ(/)がIP境界を示す前提でマッピング

 上記のいずれでも、それが7モーラ句と5モーラ句の複合体であれば、効果印象の若干の差異はあったとしても、総論として「75韻律」の効果は発生していると考えられます。

 つまり、AP境界や統語境界は、「75韻律」を発生させるための必要条件ではないといえます。


2-2 イントネーション型に依存しない

 たとえば、以下の事例を東京方言のイントネーションで発音すると、太字箇所がF区間(イントネーションが下降している区間)です。

・七五調の事例
トナカイ・コアラ/カ・タヌキ
トナカイ・コアラ/タヌキ・カ
アラ・トナカイ/カ・タヌキ
アラ・トナカイ/タヌキ・カ

※太字箇所はF区間(イントネーション下降区間)

 このF区間を自由に設定しても、「75韻律」の効果は発生していると考えられます。たとえば、全く下降調が存在しないように発音してみます。

トナカイ・コアラ/カモ・タヌキ
トナカイ・コアラ/タヌキ・カモ
コアラ・トナカイ/カモ・タヌキ
コアラ・トナカイ/タヌキ・カモ

 単語の発音としては不自然なイントネーションにはなりますが、「75韻律」の効果は発生していると考えられます。

 つまり、イントネーションがどういう状態であるかは、「75韻律」を発生させるための必要条件ではないといえます。


2-3 音節境界に依存しない

 たとえば、上記のような事例を、イントネーションは同じままで音節境界を変化させてみましょう。

ト-ナ-カイ・コ--/カ-・タ--
トン-カイ・コ--/カ-・タ--
ト-ナ-・コ--/カ-・タ--
ト-ナ--・コ--/カ-・タ--
トン--・コ--/カ-・タ--

※ハイフン(-)は音節境界を示す

 存在しない単語を発音するので違和感はあるでしょうが、このように音節境界を変化させても、「75韻律」の効果は発生していると考えられます。

 つまり、音節境界がどこにあるかどうかは、「75韻律」を発生させるための必要条件ではないといえます。


2-4 母音や子音の配置に依存しない

 たとえば、イントネーションは同じままで、母音を変えずに子音を変えるとします。

トナカイ・コアラ/カ・タヌキ
オアアイ・コアラ/カ・タヌキ
モママイ・コアラ/カ・タヌキ

 存在しない単語を発音するので違和感はあるでしょうが、「75韻律」の効果は発生していると考えられます。また逆に、

トナカイ・コアラ/カ・タヌキ
タナケイ・コアラ/カ・タヌキ
テネケイ・コアラ/カ・タヌキ
トノケイ・コアラ/カ・タヌキ

 のように子音を変えずに母音だけ変えたとしても、「75韻律」の効果は発生していると考えられます。

 つまり、母音や子音がどのように配置されているかどうかは、「75韻律」を発生させるための必要条件ではないといえます。


2-5 ストレスに依存しない

 日本語には明瞭なストレスがないというのは通説的ですが、以下のような研究もあります。

Japanese possess phrase-final stress, as well as sentence-final stress, the latter of which is stronger
日本語には句末のストレスと文末のストレスがあり、後者の方が強い

All the sentences recorded in this experiment also show evidence for sentence-initial stress, but perhaps not phrase-initial stress.
文頭ストレスが存在する証拠も示しているが、おそらく句頭ストレスはない

川原繁人ほか『日本語の韻律特性と下顎の開き』(2014年)

 日本語にも、文頭と文末にストレスがあるという主張になっています。

 これは完全な頭の体操ではありますが、日本語の「75韻律」というのは、2つの文が連続する形態であると考えることもでき、もし上記の研究が支持されるのであれば、もしかしたら「75韻律」はストレスを利用している可能性がないとも言えません。

 しかし、もし「75韻律」がストレスを利用しているとするならば、「75韻律」の各句の最終音節でrhymeをしているか、最初の音節でalliterationあるいはrhymeをしていないとおかしいともいえます。(なぜなら他国語の詩歌でストレスのある音節ではrhymeされるかalliterationがあるかが基本的だからです)

 実際の和歌をみれば分かりますが、脚韻はほとんどないと言える状況ですし、頭韻は多少あるにしても、特に句頭である必要性を要求されていません。

 つまり、ストレスの有無は、「75韻律」を発生させるための必要条件ではないといえます。


3 「75韻律」の正体への推察

 現時点においては、「75韻律」がどのような効果を生む出すものなのか、それがどのような理由からくるものなのかは、全く不明だといえます。

 しかし、少なくとも上記にあげたような日本語の特性に依存して生じるような韻律効果ではないといえます。

 現時点で言えることはこれくらいですが、もう少し考えを巡らせてみましょうか。


3-1 「休止拍」の問題

 過去に行われた日本語の「75韻律」論には、ある共通する問題があります。それは「休止拍」を論に組み込んでいることです。

 この歴史は古く、最古のものだと、高橋龍雄の論があります。これを一般に『短歌四拍子説』といいます。

音譜の上よりいへば、日本の七五調ハ、四分の四にてあらはすこそ、最も明晰なるものなれ

高橋龍雄「五七調から七五調に変じたる理由」(1899年)

 国語学者の時枝の論も、似たような記述をしています。

リズムは一般にその基本単位が群化して、より大なるリズム単位を構成する。(中略)リズム形式の群団化に於いても特殊なる様式を見い出すのである。その方法は、音声の休止である。(中略)休止による群団化は次の如き形式となる。
│○│○│○│休│○│○│○│休│○│○│○│
ここに三音節のリズムの群団が成立する。(中略)休止が群団化の標識となる

時枝誠記『国語学原論』(1941)

 他にも、歌人や詩人、英文学者などがさまざまこの『短歌四拍子説』を論じていますが、いずれも言語の議論をしているにも関わらず、「休止拍」を論に組み込んでいます。

土居光知『言葉と音律』(1970年)
菅谷規矩雄『詩的リズム―音数律に関するノート』(1975年)
別宮貞徳『日本語のリズム』(1977年)
荒木亨『木魂を失った世界のなかで 詩・ことば・リズム』(1982年)
坂野信彦『七五調の謎をとく―日本語リズム原論』(1996年)

 最初にあげた桐越舞(2016年)の論文も、この経緯を踏まえてだと思いますが、「休止拍」が存在することを前提とした論述になっています。渡部・小磯(2014年)もある程度は「休止拍」の存在を織り込んだ調査統制をしています。

 しかし、他国語(例えば英語や中国語、フランス語)の詩歌の韻律を議論するときに、「休止拍」の存在を考慮しながら議論・論評しているものをわたしは見たことがありません。日本語の詩歌の韻律を議論するのに休止拍が必須なのであれば、それは当然他国語の詩歌の韻律を議論するのにも必須なはずです。しかし、そういう議論を特に見たことがないということは、何かおかしなことをしている可能性があります。

(厳密には、フランス語の詩歌にはcaesura"カエスーラ"という句切れがありますが、この句切れは必ずしも楽譜上、とりわけ四分の四拍子に乗せるための休止拍としては議論されていないと理解しています)

 つまり何が言いたいかというと、『短歌四拍子説』というのは実は言語の議論をしているようでしていないのではないか、とわたしは思っています。実はこれ言語の話をしているつもりで、音楽の話にすり替わっているのではないでしょうか。


3-2 単なるリズム効果の可能性

 2章で示したように、「75韻律」に関与している日本語の韻律特性や音韻構造というのは明らかになっていません。

 もしかしたら、音節の時間長と等時性の高さに依存する可能性はあると思いますが、韻律効果の発生源は、実は「日本語の特性と直接の関係がない、音楽上の韻律効果だった」となる可能性もあるのではないでしょうか。

 「75韻律」というのは、日本語を楽器として利用しているだけに過ぎない、単なるリズム効果の可能性があるということです。

 そうなると、これはもう日本語の議論というよりは音楽特にリズムの議論になりますので、5音の連続体と7音の連続体の交互表出が、人間の音響心理にどのような影響を与えるのか、というところにフォーカスしないといけなくなります。

 リズムにたいして、科学的なアプローチをすることで、何か分かることがあるかもしれません。


4 まとめ

 というわけで、今回は日本語の「75韻律」について文章を書いていきました。

 まぁ正直なところ、「謎すぎる」ということに尽きるのですが、これだけの日本語の歴史がありながら、日本語には巨大な謎が残されている、というのは面白い話です。

 本当に「75韻律」が単なるリズム効果だったら天地がひっくり返りますね。皆さんもぜひ、この機会に日本語の韻律について考えてみてください。


詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/