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日本語の押韻論:母音中心主義の問題と押韻の本質

 こんばんは。Sagishiです。

 今日は、「押韻」の本質とは何かを考えていきます。


1 母音中心主義の問題

 まず最初に話していくのは、日本語ラップが発達させた「母音」中心による押韻理解についてです(仮にここでは『母音中心主義』と呼びます)。

 『母音中心主義』とは、例えば『母音中心主義』という語の子音を外して母音だけに還元・分解し、「おいんうーいんうい」のように表す手法、そのような押韻観を差します。

 この発明によって、日本語で押韻を作ることが飛躍的に容易になり、日本語ラップや日本語の押韻は発達してきた、と考えています。

 しかし、『母音中心主義』には多くの問題があります。それをここでは書いていきます。


1-1 音声で母音分解をしていない

 例えば、先日こんな内容のツイートを見つけました。

「押韻主義」と「お墨つき」は踏んでるでしょ。
母音に直したら、どっちも「おういうい」

 このツイートには典型的な『母音中心主義』的な世界観が現れているのですが、「押韻主義」と「お墨つき」はどちらも母音が「おういうい」に分解される、と主張しています。

 しかし、実際のところ「押韻主義」は「おーいんうい」で、「お墨つき」は「おういうい」で、両者の音声の構成は異なります。それがなぜか、どちらとも「おういうい」にしてしまっています。

 おそらく単純に文字をひらがなに還元して、その上で「ん」を取り除いているからでしょう。

 しかし、「押韻主義」の「押」は1音1音はっきりと遅く発音しない限りは「おー」という発音になり、「お・う」だといえるくらいに「う」の母音は音声的に明確になって現れません。実際「う」を明瞭に発音しようとすると違和感が出てくるはずです。対して「お墨つき」の「す」は、通常の発音で「う」の母音が現れます。

 なので、「押韻主義」と「お墨つき」はどちらも「おういうい」だ、という主張は音声を正確に記述しておらず、文字に引っ張られています。

 これは実は陥りがちな錯誤なのですが、書き言葉で表されるものが正確な音声とは限らないです。この錯誤に陥った押韻として、代表的なものに次の例があります。

言うこと
いつもの

 上記の押韻は実際に日本語ラップの曲で使われている押韻から引っ張ってきたものですが、「言うこと」と「いつもの」は母音に還元すればどちらも「いうおお」でしょうか? いいえ、違いますね。「言う」の発音は実際は「ゆー」になっている場合がほとんどです。(このような日本語の音変化は「母音融合」と言われます)

 上記の曲でも「ゆーこと」と発音されてますが、なぜか「うーおお」で押韻されず、「いつもの」つまり「いうおお」で押韻されており、完全に表記上の文字に引っ張られています。

 単純に文字をひらがなに還元して、母音が一緒であれば押韻になる、という考えは音声的な正確性に欠いてしまう場合があり、注意が必要です。


1-2 特殊モーラを無視している

 さらに先ほどの例は、「押韻主義」の「ん」を意図的に無視しています。これはなぜなのでしょうか。

 このことを考えるために、『韻ノート』というサイトを引用します。このサイトで「押韻主義」と検索すると、下記のような表示がされます。

「押韻主義(おういんしゅぎ)」の母音は「おーいんうい」です。「ん」「ー」「っ」は無視してもいいので、「おいうい」で踏める韻を表示しています。

 なぜか「特殊モーラ」(長音、撥音、促音、二重母音の後部要素)を無視して良いと表示が出ます。『韻ノート』の作者の細川貴英さんのツイートを見ると、その考えが書かれています。

「ん」「ー」「っ」は母音がないから無視できる

 「母音がないから無視できる」? 本当でしょうか。むしろ長音には「母音しかない」はずです。「押韻主義」の「おー」の長音の部分は、母音「お」ですよね? なぜ母音がないと錯誤をしているのでしょうか。そしてそもそも母音がないから無視できるというのは正しいのでしょうか?

 確かに、「特殊モーラ」を一見無視するかのようにして押韻を構成できる場合はあります。次のような事例です。

◆事例1
カート
カント
カット
カイト

◆事例2
サラダ
散乱弾


 これは「特殊モーラ」が基本的に音節の主音にならないから、実現できる手法です。わたしは事例1を『重音節韻』、事例2を『長短韻』と名前をつけて呼んでいます。

 しかし『重音節韻』や『長短韻』というのは、「特殊モーラ」を完全に無視しているのではなく、むしろ利用することで成り立つ押韻手法です。

 本当に「特殊モーラ」を完全に無視すると、例えば「パターン」は「ああ」だけになってしまいますが、「パターン」と「バカ」とか、「パターン」と「傘」とかで押韻がきれいに成立している感じがあるでしょうか?

 「パターン」は「サターン」で押韻するなど、「特殊モーラ」要素もきちんと合わせたほうが、より正確できれいな押韻になるはずです。決して、「特殊モーラ」は無視していいというものではありません。


1-3 正確性の問題

 まとめると、「押韻主義」と「お墨つき」を「おういうい」や「おいうい」に母音分解することは、音声の記述として正確性に欠けているといえます。

 確かに『母音中心主義』は日本語ラップや日本語の押韻を発達させてきました。しかし、書き言葉と実際の音声の差異に翻弄されたり、母音分解の際に「特殊モーラ」を除外したり、必ずしも母音だけにすれば押韻になるというのは違っています。このような正確性の面で問題がある、ということをわたしたちは認識しておく必要があります。

 より正確できれいな押韻を作りたいのであれば、母音分解の際には、より実際の音声に忠実であるよう意識し、「特殊モーラ」を除外しないで分解させるのがベストだといえるでしょう。


2 響きの押韻論

 ところで、わたしたちは何をもって「押韻」を「押韻」だと感じている、もしくは考えているのでしょうか。

 思うに、わたしたちは何らかの「主観」に基づいて、つまりは一定以上の「響き」が出ていると感じるかどうかを基準にして、「それは押韻だ」とか「そうじゃない」とか、「良い押韻だ」とか「微妙な押韻だ」とか、言っているのではないでしょうか。

 ここからは、より押韻の本質に迫っていきます。


2-1 押韻の本質

 日本語の詩歌の歴史を振り返ると、万葉集成立の時代以前から現代まで、ほとんど日本語の脚韻は発達してこなかったです。多少頭韻は発達してきましたが、それでも主流といえる状況ではありませんでした。

 だいたい1990年くらいまでは、日本における押韻の技術というのは未完成でした。それがHIPHOPが生まれて日本に持ち込まれ、そして1993~1995年頃に大きな変革が起きて、日本語の押韻手法が初めて確立します。

 そのブレイクスルーが起きた理由は、multisyllabic rhymes(多音節韻)が誕生したからだとわたしは考えています。1980年代後半ごろのUS HIPHOPにおいて発達してきた手法です。Eric B. & Rakim『I Know You Got Soul』(1987)などは非常に有名です。

 そして、この技術をK DUB SHINEが日本語に部分的に持ち込むことに成功した、とわたしは考えています。

 この技術革新によって、「フラストレーション/二つの迷路」(BY PHAR THE DOPEST『言わなくていい』(1999年)より)のような高度で長い押韻を、日本語でも作ることができるようになりました。

 それ以前の日本語の押韻には「時間的な長さ」や「対応する音の数」が不足していた、もっと突き詰めて言うと、押韻として必要な「響き」が、多音節韻の成立以前だと一定のレベルを超えていなかった、だから発達せず一般に普及してこなかった、それを克服するには多音節韻じゃないと実現できなかった、ということだとわたしは考えます。

 有名な『マチネ・ポエティク』で、日本語による押韻定型詩への挑戦をした中村真一郎が、「押韻定型詩三十年後」(1980年)にて「二母音一子音」(最低でも2つの母音と1つの子音を揃えて脚韻する)という押韻手法のルールが存在したことを明かしています。これは2モーラの日本語の押韻では当時だめだった、ということを暗に示唆しています。

 わたしたちが「押韻」を「押韻」だと感じるためには、一定レベル以上の何かが必要で、その要素の1つが「響き」だといえます。「響き」というのは、押韻の1つの本質です。(響かないほうが良いという価値観もありますが、それはまた別の話)


2-2 子音の響き

 『母音中心主義』は、より長い押韻を作るための良い手法でした。確かにいちいち子音を意識すると、長い押韻を作るのに時間がかかりますし、考えることが単純に増えるので高度になります。

 とりあえず母音だけに集中することで、より長い押韻を簡易的に作れるのであれば、それに越したことはないですし、1つの考え方でしょう。

 しかしその結果としてなのか、「子音」が本質的にどういう効果を持っているのか、わたしたちはあまり意識しなくなりました。次のような例は、「母音」関係なく「響き」が出ています。

ルーレ
ローラ

 多くのひとはストレートに「子音が同じだから」と答えるでしょう。確かにその通りですが、要は母音が無くても「響き」は作れるということです。このことは、実は大きな問題をはらんでいます。 

 最初に出した「押韻主義」と「お墨つき」が、良い感じの例として使えます。

押韻主義(おーいんしゅぎ)
お墨付き(おすみつき)

 わたしは「押韻主義」と「お墨つき」は音声の構成が異なると指摘しました。つまりこのペアは「押韻」として「不完全」であり、「響き」が弱いはず、というのがわたしの本来の想定です。

 しかし実際のところ、「押韻主義」と「お墨つき」はそこそこ良い感じの「響き」が出ています。想定からずれています。これは実は「母音」の効果ではなく、「子音」の効果で「響き」が出ています。

 「子音」を素性に解体して、一致点を細かく見てみましょう。

おー:「共鳴音」「声門音」「調音点なし」「有声音」
い :「共鳴音」「声門音」「調音点なし」「有声音」
ん :「共鳴音」「声門音」「鼻音」「有声音」
しゅ:「阻害音」「歯茎硬口蓋音」「摩擦音」「無声音」
ぎ :「阻害音」「軟口蓋音」「破裂音」「有声音」

お :「共鳴音」「声門音」「調音点なし」「有声音」
す :「阻害音」「歯茎音」「摩擦音」「無声音」
み :「共鳴音」「両唇音」「鼻音」「有声音」
つ :「阻害音」「歯茎音」「破擦音」「無声音」
き :「阻害音」「軟口蓋音」「破裂音」「無声音」

 語の最初の「お」は同じ音で、語の最後の「ぎ/き」は有声音か無声音かの違いしかなく(まぁ見ただけで分かるとは思いますが)、近類する性質の子音ペアになっています。

 早い話、「押韻主義」と「お墨つき」のペアがいい感じの「響き」を出せているのは、「母音」というよりは「子音」の資する効果のほうが大きい、ということをわたしは言いたいです。

 わたしの主張をより明確にしましょう。「押韻主義」「お墨つき」と同じ音節・母音を持っていて、かつ子音が異なる例を複数用意します。

◆押韻主義(おーいんうい)パターン
賞金首 (おーいんうい)
強引すぎ(おーいんうい)
送信済み(おーいんうい)

◆お墨付き(おういうい)パターン
旭日旗 (おういうい)
国立に (おういうい)
浴室に (おういうい)

 そして、「押韻主義/旭日旗」「押韻主義/国立に」「押韻主義/浴室に」「賞金首/旭日旗」「賞金首/国立に」……みたいにペアをズラしていって、それぞれを発音してみてください。

 どうですか? 押韻として微妙なペアがありませんか? これは実際のラップでは使えねーと思うやつはありませんか? それが正体です。

 川原繁人さんの研究(というか動画)で、『実際のラップを聴いていると「似ている子音」が組み合わされることが多い』と指摘されています。押韻に慣れているひとは知らずしらずのうちに「ラップとして使える響きのある押韻ペア=つまり子音が揃っているペアを、感覚的に選んでいる」のです。

 ラップに慣れているひとは、ついつい押韻ペアを母音に還元します。そして母音が揃っていれば母音のおかげで効果が出ているのだと錯覚していますが、実際には「子音」が果たしている役割も非常に大きいです。

 「押韻主義」と「お墨つき」のペアは典型です。これは母音が揃っているから「響き」が出ているのではなく、実際には「子音が揃ってるから」押韻と感じるレベルにまで「響き」が引き上げられている例だといえます。「母音に還元したら踏めてる」というのは錯誤であり本質ではないです。

 ツイートしたひとも、母音に分解しているのにまさか母音じゃなくて子音のほうをより注目すべきだったとは想像もしていないでしょう。

 「母音」の効果だと思いきや、実が「子音」が支えていることで「押韻」として必要な「響き」を満たしている、ということはあり得るのです。

 そしてこの事実は、「押韻」というのは「母音」という1つの指標で測るものではなく、より複合的な姿をしているとわたしたちに伝えてきています。


2-3 響きの4要素

 わたしは、「押韻」の1つの本質は「響き」であると考えています。そして、日本語の押韻の「響き」というのは「母音」だけではなく、複数の要素によって複合的・総合的に構成されるものだと考えます。

 ラップであれば、発話・発声によって言語音が操作されるため、発話速度や発話音量などの微細な差異によっても、「響き」というのは変化します。それを「フロウ」と言ったりしますが、「フロウ」は個人差が大きく、定量的な評価が難しいため、より客観的な指標としては「音節・特殊モーラ」「母音」「子音」「アクセント・イントネーション」が使える、と現在のわたしは考えています。


3 響きの減衰実例

 日本語の押韻の「響き」は、「音節・特殊モーラ」「母音」「子音」「アクセント・イントネーション」によって構成される、というのが現在のわたしの考えです。それが分かるような客観的な例を、以下に記載します。


3-1 音節・特殊モーラの不一致

 「母音」「子音」「イントネーション」が揃っているのに、音節内要素の「特殊モーラ」が一致していないために「響き」が減衰する例があります。最初に出した『重音節韻』です。

◆重音節韻
カート
カント
カット
カイト

◆比較事例
カート/マート
カート/マット

 「カート/マート」のペアよりも、「カート/マット」のペアのほうが「響き」が異なるないしは弱いと感じるはずです。


 また、「母音」「子音」が揃っていて「イントネーション」もほぼ同じ傾向なのに、音節の時間長が揃っていないために「響き」が減衰する例があります。こういう例は『長短韻』です。

◆長短韻
サラダ
散乱弾

◆比較事例
サラダ/からだ
サラダ/観覧だ

 「サラダ/からだ」のペアよりも、「サラダ/観覧だ」のペアのほうが「響き」が異なるないしは弱いと感じるはずです。


3-2 母音の不一致

 「音節・特殊モーラ」「子音」「イントネーション」が揃っているのに、「母音」が一致していないため「響き」が減衰している例があります。これはシンプルですね。

◆比較事例
ルーレ/クーペ
ルーレ/コーパ

 「ルーレ/クーペ」のペアよりも、「ルーレ/コーパ」のペアのほうが「響き」が異なるないしは弱いと感じるはずです。


3-3 子音の不一致

 「音節」「母音」「イントネーション」を揃えているのに、「子音」の不一致によって「響き」が減衰している例には下記があります。

◆完全イントネーション韻
隙間風(すきまかぜ/NNNFF)
麦畑 (むぎばたけ/NNNFF)
※Nはアクセントが下降しない(Not Fall)、Fは下降する(Fall)を意味する

◆比較事例
隙間風/すり合わせ
隙間風/麦畑

 「隙間風/すり合わせ」のペアよりも、「隙間風/麦畑」のペアのほうが「響き」が異なるないしは弱いと感じるはずです。


3-4 アクセント・イントネーションの不一致

 「音節」「母音」「子音」を揃えているのに、「アクセント・イントネーション」の不一致によって「響き」が減衰している例には下記があります。

◆事例1
障害(NNNN)
生涯(NFFF)

京大(NNNN)
兄弟(NFFF)
※Nはアクセントが下降しない(Not Fall)、Fは下降する(Fall)を意味する

◆比較事例
障害/京大
障害/兄弟

 「障害/京大」のペアよりも、「障害/兄弟」のペアのほうが「響き」が異なるないしは弱いと感じるはずです。

 また、品詞の異なるような同音異義語韻も、このカテゴリーに入ることがあります。

◆事例2
漢字カタカナ(NNN・NNNF)
感じ方かな?(NNNNN・NN)


まとめ

 今回の記事では、『母音中心主義』の問題を通して、「押韻」の「響き」というものが、「音節・特殊モーラ」「母音」「子音」「アクセント・イントネーション」などの多種の要素によって複合的・総合的に成り立つものだ、ということを書きました。

 「押韻」というのがいかに多様な側面・表情を持っているのか、ということを改めて伝えたいと思ったからです。1面だけを見ていたら分からないもの、それこそが本質だと考えます。

 それは母音さえ揃えば押韻になるという考えも、ある程度「響き」が出ていればそれを押韻として認定するという考えも、統合的な押韻にたいする理解としては不足しているところがある、その可能性があるということです。

 まだ日本語の押韻にたいする検証と考察は不足しています。未知で不明な現象・領域も残されています。なぜこの押韻ペアは響くのか、響かないのか、ということは今後も本質を突き詰めて考えていく必要があります。

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/