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旅文通13 - 自らのルーツに分け入り、その根の先端から地中にさらに飛び出してゆけ。

 テオさん、長い間ご無沙汰してしまいました。
 世界は戦時下にあり、終息の目処は立たず、そんな中で、今までの旅の思い出を綴る気分でないというだけでなく、“旅を通じての思索”を心の中から引っ張り出すことがなかなかできませんでした。ゆるしてください。
 今日はようやく、気を取り直しています。

 今回の旅先は、ニューヨーク、アップステイトのチボリ。
 マンハッタンから直行すれば車で一時間ほどでしょうか。旅とも言えない距離です。
 キャッツキルをはじめとするアップステイト一帯の山と渓谷は間違いなくニューヨークの宝。チボリの界隈も、大好きです。
 歴史的建造物も点在し、ハドソン川が海のように広くなる地域。<詩人の公園>なんていうトレイルもあるんですよ。今度、歩きに行きませんか。

 この夏、そのチボリにある、バレエやモダンダンス、他にもさまざまなパフォーミングアーツの活動を支援している、Kaatsbaan というカルチュアル・パークで、貴重なひとときを過ごしてきました。

 広大な芝の広場の真ん中に設置されたステージに結集した、15人の、とびきりのミュージシャンたちのコンサート。
 主催者は、バリシニコフ・アーツセンターで、芸術監督に抜擢されたのは、渡辺薫さんです。
 米国で生まれ育った方なので、日本人にはそれほど知られていないかもしれません。でも、日本にも10年ほど住んでいらっしゃって、太鼓芸能の「鼓童」で、演奏家、演出家として活動、坂東玉三郎さんや書家の柿沼康二さんと共演もなさってます。日本の外では、バリシニコフ、ローリー・アンダーソン、ヨーヨーマ、ジェイソン・モラン等とのプロジェクトを含め、伝統音楽、ジャズ、即興、実験音楽を縦横無尽に融合させる錬金術師です。CRSでも演奏していただいているので良かったらウェブサイトにあるアーカイブをご覧くださいね。

 彼の呼びかけに集まった、多様なミュージシャンたちがまた見事。彼らは、グラミー賞をはじめとする数々の受賞歴や、積み上げられた作品の厚みや、各国間を飛び回って演奏したり教えたりする多忙な日々を持つ面々ですが、その素晴らしさというのは、例えば、まず、一つの楽器に秀でることに安住している人がいない、ということが挙げられます。
 
 幾つもの楽器やボディムーヴメントや作曲、本の執筆、オペラ制作と上映、詩作、その他あらゆる形態で表現していて、それは、「あれもこれもできる音楽家になろう」としているわけではなく、自己を表現しようとする時にそのツールをできるだけ限定せず、できるだけ自在にやりたい、個体としての自分、身体的自分、感覚器官としての自分をどこまでも開かせていきたい、という原初的な欲望がそうさせているのです。

 何をどのような形で表現しようと、自分の源から離れることはないわけですから、つまり、その源を、自分の個体に閉じ込めておかずに放出したいという基本的衝動に正直に従うならば、活動形態が多種多様になるのは当然でもあるのですよね。形態と形態の間に境界線をひくことは、自らを窮屈な場所に閉じ込めることになりますから。

 コンサートは、渡辺薫さんのオープニング・スピーチから始まりました。「みんなで二週間寝食を共にしながらリハーサルを行なって、今日の本番を迎えました」
 そのリハーサル、はじめにやったこと、そしていちばん時間を費やしたことは、「それぞれの人生の背景を語り合うことだった」と続いたところで彼は絶句。
 しばし、涙の沈黙があり、
「誰もが自国でジェノサイド、戦争、国の破壊、などのストーリーを背景に抱えていた。それを語りあった」
「お互いに語り、聴き、そこから今日の楽曲が生まれた」
と。
「僕のストーリー。戦時中、学校教員をしていた祖父が、戦争は良くない、平和を望む、と、生徒の前で発言したことで、校長先生が辞任されたのです」

 その場にいた誰もが引き連れてきたガザの現状という心の重石。それが、このスピーチで、ガザという時空間から、地理的にも時間的にも一気に広がり、皆の共通意識となりました。
 暗く重いストーリーのない国は存在しないでしょう。また、人間も存在しないでしょう。「過去は、すべからく、暗く重いものだ」と言って過言ではないと思います。自分の過去を明るく輝かしいものとして振り返ることができたらいいだろうなあと、人はファンタジーを抱くものかもしれませんが、ファンタジーの現実化はあり得ず、明るい輝きを見つけたかったら、「今」に意識を集中させるほかありません。

 とはいえ、過去をなかったことにするわけにもいきませんから、「今」の光で過去を照らし直す必要が出てきます。

 でも、「今」って何?
 
 “いまここ”にとどまれ、“いまここ”に平和があり満足がある、と言うけれど、たとえば今わたしは、University PL.の可愛らしいカフェでスコーンをつまみながらこれを書いているけれど、それがわたしの“いまここ”かと問われれば、否。

 “いまここ”とは、わたしが身体的に位置している場所や状態ではありません。
 では何か?
 
 その答えは、15人の、多様な民族的地理的芸術的背景を持つミュージシャンが鮮やかに見せてくれたように感じました。

 家族、祖先、祖国、世界を巻き込んでいる過去の物語。心の奥に潜んでいる、その暗く重い影。その一部でも、そっと引き出し、分かち合えたら、そこには自然に、同時に、芸術的なプロセス、ビジョンが発生し、それらもまた共有していくことになるでしょう。

 結集し、個々の暗いストーリーを分かち合い、繋がり合うことで、過去を共に照らし直す。その時、“いまここ”という光は発生するのだと思うのです。
 もちろん“いまここ”は常に実在し、それしか実在していない。とはいえ、それは発生させない限り、目撃はできません。
 芝生の上で、“いまここ”にわたしもまた参加している、“いまここ”が寄せてくる、という感覚を、抱きしめながら、さまざまな国にルーツを持つミュージシャンによる心のストーリーと“いまここ”に抱かれる時間でした。

 暗い記憶に蓋をする代わりに、記憶のさらに遠い昔、自分という樹木の根っこの先の先まで進み出た時、その深い土中で出会う心。それが“いまここ”の光と安心、喜びと愛なのではないかと思います。のびのびと枝葉を広げるも良し。陽射しに向かって、もっともっとと手を伸ばすのも良し。でもこの夏わたしは、むしろ、根っこの旅、思いがけずも太く長く密生している根っこの先へ、他の樹木の根と絡まり合ってきつく結ばれている根の先へ出ていくことに、土の中の静寂にある音楽に耳を傾けることに意識が向いています。
     
 Baryshnikov arts:Bloodlines Interwoven Festival :  
                      https://baryshnikovarts.org/past-events/bloodlines/ 


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