すみっこ

亀のように

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最近の記事

手あてのすすめ

 体に手をあてる。それだけ。 手をあてたいところにあてる。ゆったりくつろぐ。 ひんやりしてるところを手のひらで温める。あちこち温める。 手のひらでやさしく包む。 心地良い箇所にはしばらく、手を置いたまま、物思いに耽る。ゆっくりゆっくり。 体に聞いて手のひらで癒やすということ。いつどこでやってもいい。おすすめは目覚めたときお布団に入ったまま。 そしてひとつため息をついてみる。体がほっとすると呼吸も柔らかく深くなる。    手あてという言葉は、手をあてることからきてるんだもの

    • 朝起きぬけのセルフメンテナンス

       春の気配は漂ってきてもまだ毎日寒いですね。  朝、布団の中でツボを押したりマッサージしながらもぞもぞしていたら、なんだか上手くいったので、書いてみようと思います。文章では分かりにくいかもしれないので動画も撮りました。見て見ぬふりしてもらえたら助かります 笑  手足の血行が良くなって体が温まれば、布団から出る気になれるかも?  *ツボ押しやマッサージは力を込めすぎないようにしてくださいね。毛細血管などが傷つくとむしろ血行が悪くなることも。もしツボのところが硬かったら、そこは

      • 穢れとは

        こちらのツイートを読んで「穢れ」について言霊の資料を引きながら考察してみた。 スレッド最後に書かれているように、このような風習については何らかの意図があるのだろうと思っている。 言葉の音の持つ純粋な意味から離れて、負のイメージが感じられることもあるけれど、風習に倣う行為によって守られていることもあるのではないか。例えば、穢れとされる状態にある女性に炊事をさせないことで、火事等の事故を未然に防ぐといったような。 まずは、言葉の音の持つ純粋な意味を知るために、資料から引用し

        • 迷いの淵

          「黙る」ということは、大きな声に抵抗できない…しないということでもある。 ある意見が大きな声となるのは、近い意見が多数であることを示す。SNSはそれを加速する。人と人が会わずになされる言葉のコミュニケーションは個々の身体性を疎かにし易い。たとえどれだけ多数の人たちが特定の意見を認めたとしても、たったひとりの「私」にとって違うのであれば違うのだ。 がしかし考えてみれば、多数を占める者たちに力があり少数が疎外されるのは、遙か昔から変わらないのではないか。多数の正しさより、身体

        手あてのすすめ

          2021.7.31の一日

          言葉は要らないんだな 採りたてのオクラ 生のまま塩をつけて丸かじりが美味しいと知る 人と人との火花の煌き ひとりの静けさ 囚われた幻想から抜けてゆきたい 誰もが抜けてほしいと願う 解き放たれた時死を迎えるのだろうか 遠く俯瞰すれば全て繋がっているかのよう 個はひとつの結びめ 其処を流れるもの刻々と変わる それがそのまま生きるということ 流れゆくもの混ざり合い同じ色が現れることはない しかしこれはうつし世の幻かもしれない 人生後半の和やかな準備期間 慈雨

          2021.7.31の一日

          癖と咳

          風邪と体調不良から回復に向かう中での自己観察メモ。2020.12.20 (追記あり) ***** 横になって休みながら起きるでも眠るでもなくぼんやりと、いつも通りの思考を巡らせていたら、ある所に到った瞬間急に咳き込んで、其処が体調を崩した原因だと理解したのです。ただ、咳き込んだ途端に何を思考していたのやらすっかり消え失せてしまい、どんな思考が自分に負担をかけているのかを意識上で把握するには至りませんでした。とはいえ、その思考で起きる身体反応は分かったので、受け身もしくは

          共振の海

          書こうとしたものが熟成した瞬間を逃すと、すぎ去った逸話となり、重要度が下がってしまう。今に引き戻す意味も薄れる。たぶん、本当に大切ならばまたいつか浮かび上がるだろうと、語らずにすぎ去った数々の物語はたくさんある。次 浮かぶ機会には、何かと交合し姿を変えているに違いないのだ。いつもそうしてただ眺めてきた。しかし今回は、ちょっと踏ん張ってみよう。今の私は語る積極性を持ってみたい年頃なのだ 笑 数日前Twitterに流れてきたあるブログに衝撃を受けてから、しばらく思考をこねくり回

          共振の海

          流れる

          故郷もなく、長いあいだ、根を張る確かなものを何も持たず浮き草のように生きてきた私は、今住んでいるこの山に辿り着き、身の丈に合った幸福を手にした。こうなんというか、小さな幸せの中にいる私は、何かをやる意味を見失っていた。いつ死んでも構わない気はしても、突然死んで後悔しないかと問われれば自信はない。何も求めないまま暮らすというのはそれなりに難しい。家族のために生きるなどというのもおこがましいし、かといって己れの善意を基準に成すものなんてロクなことはないとも、少し前に気づいてしまっ