流れる

故郷もなく、長いあいだ、根を張る確かなものを何も持たず浮き草のように生きてきた私は、今住んでいるこの山に辿り着き、身の丈に合った幸福を手にした。こうなんというか、小さな幸せの中にいる私は、何かをやる意味を見失っていた。いつ死んでも構わない気はしても、突然死んで後悔しないかと問われれば自信はない。何も求めないまま暮らすというのはそれなりに難しい。家族のために生きるなどというのもおこがましいし、かといって己れの善意を基準に成すものなんてロクなことはないとも、少し前に気づいてしまっていた。根づく場を得たというのに、相変わらずただ彷徨っている。

今年は飼っていた犬と鶏が次々と亡くなり、ほんのり寂しさを感じ、時折彼ら彼女らとの思い出に浸りながらも、おかげで余った気力を農作業に向けていた。家事や畑事の合間に、ネットで調べものをしたり、Twitterを覗いてはくだらない可笑しさを消費していたところ、何気なくフォローした+Mさんの紡ぎ出す言葉たちのことごとくに、魅了された。

私は自分の感じている曖昧なものを言葉に固定するのが苦手だ。言葉にした瞬間に大事なものが抜け落ちてしまう気がする。けれど+Mさんの綴る言葉は違った。こんな風に人に伝えるということが出来るのかと目を見張り、真似したくなった。当然、そう簡単に叶うわけはない。今まで蓄積してきた何もかもが違うのだから。

有機的につながるフォロワーさんたちも大好きになった。

こうして、すぐに没入する性質もあり、Twitterにかける比重はみるみる大きくなった。

さてそんな折、+Mさんが何かをつかんだという。丸一日風景や食べ物の写真が流れていく。そして昨晩のnote、わくわくしながらいつものように開く。

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読むそばから夢中になった。読み終えて幸福感に包まれた。恥ずかしげもなくツイートした。

「素晴らしい」「最高だった」

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やたらと高揚していた。


かつて、20代半ばだったろうか。その頃は、学生として絵を描いていれば良い恵まれた境遇にいるのに、やたらと若さゆえの悩みに囚われていた。心象風景をそのまま筆で書きとめる画風だったため幻想に没入し過ごす時が多くを占めていた。ふとある時、目の前を流れる幻想の川を眺めたことがある。大げさに、人生とは川の流れのようだななんて、ぼんやり考えていた。

しかし、昨夜の+Mさんのnoteを読んで、あの頃のそれは、あくまで川の中に佇む岩のように自分を起点にして眺めていたのだと知る。

言葉ではすぐ理解した。そして私も腑におちたらいいなと、なんとはなしに憧れた。

一晩眠り、目覚めのふわふわした中で、腑におちる端っこをとらえた気がした。今はこれをなるべく長くキープしたい欲と共にいる。新しく見つけた欲という名の友達。欲と一緒にいるうちはきっとまだ腑におちることはないけれども、これはこれで楽しい。腑におちた先の景色はどんなふうだろう。こうして今日もまたいつもの日常が流れゆく。



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