共振の海

書こうとしたものが熟成した瞬間を逃すと、すぎ去った逸話となり、重要度が下がってしまう。今に引き戻す意味も薄れる。たぶん、本当に大切ならばまたいつか浮かび上がるだろうと、語らずにすぎ去った数々の物語はたくさんある。次 浮かぶ機会には、何かと交合し姿を変えているに違いないのだ。いつもそうしてただ眺めてきた。しかし今回は、ちょっと踏ん張ってみよう。今の私は語る積極性を持ってみたい年頃なのだ 笑

数日前Twitterに流れてきたあるブログに衝撃を受けてから、しばらく思考をこねくり回していた。

原文はこちら

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「○○が可愛かった」「○○がかっこよかった」「アレは面白い」「アレはつまらない」といった感情を、これからは代表者が綴り、
俺達は彼らが思うように、思う

「鬼滅の刃」を巡り考察された論考は、なるほど妙に説得力がある。


ふと、ポール・ブルーム『反共感論』のレビューを+Mさんがツイートしていたのを思い出す。

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とても興味深い話。中から一部引用させてもらう。

この本で著者が説いているのは、共感の否定ではない。理性的制御のもとで、共感を適切に用いるべきだという主張である。共感は、本来共感によっては解決不能なマクロな領域にまで誤用されている。その誤った拡張を制限しようということである。
さて、著者の主張に弱点があるとすれば、それは、人間が情動の働きを自制して理性的熟慮を為すということへの動機づけの弱さについて、十分な議論がなされてはいないという点ではないだろうか。例えば共感は、人に生得的な深い感情を与える。だが、理性的熟慮には、そうした強い情動が伴うことはない。
ジョナサン・ハイトの分析の最も重要な意義は「異なる<正しさ>を持つ人同士が話し合うためには、各々が自らの情動のモジュールに支配されていることを自覚せねばならない」というものだ。「理性的になる」とは情動を否定することではなく、情動を自制して異なる情動モジュールの<間>に出ることである。

確かに<間>に出なければと「共感」した。いつもそうだ。はてなブログの記事「俺達は彼らが思うように、思う。」にも「共感」した。そうだ、こうやって心は例外なく、“ 彼らが思うように思っている“ とも言えそうだ。

では、“私“ はどこにいるのか。これが哲学で有名な「我思う故に我あり」の意味なのだろうか。

何かを読んだり体験するのは肉体を持った個人だ。受け取ったものは意識的にしろ無意識にしろ、必ず体に引き寄せている。いや、浸っていると言ってもいい。そうしてしか「理解」はできない。

それともまさか「脳」だけで理解する人もいるの?なんて、さすがに無理がある。いるとしたらかなりな珍獣だ。
脳全能主義ーいわゆる「脳が全てを記憶し、指令を出し、処理している」とする思想は、現代のミステイクではないかと常々思う。


さてひと息つく。

言葉の迷宮に迷ったときは、鳥になったつもりで見渡す。迷宮のまわりを吹く風でもなんでもいい。佇む鉱物でもいいけれど、俯瞰可能な広さまで拡げるのにはちょっとした想像力がいる。


「共感」に話をもどそう。

実は、共感の主体として振る舞う「我」は、確固たる独立した存在ではなくて、共振作用の海にいて、いやむしろそのものの一部ではないか。共感とは、共振の海から偶然選び取り繋ぎ止めているだけの、思考と呼ばれるうちのひとつの姿。我はたまたま海のそのあたりをうろついていたにすぎない。では繋ぎ止める我とは何か、我と思う自我、接着剤のようなもの、結合を促す水のようなもの。

その出所は身体しか思いつかない。私たちは身体を通してしか、なにもかも、捉えることも考えることも不可能なのだ。その個の身体により選択された共感含む様々な思考の集合体を我は我と認識する。いかにも当たり前すぎるのだけど。我の出所が身体である故に個の独立性を信じやすいと言えばいいだろうか。

身体は空間的に区切られている故に個体の独立性を信じさせがちだが、有機的ネットワークを皮膚という膜が区切っているだけ。膜の外と内は遮断されていない。水も空気も食物エネルギーも菌も何もかもが常に入れ替わり、詩的にいえば、交流し共感したりもしているのだ。例えば菌や星の、ミクロかマクロな世界に思いを馳せれば見えてくるだろう。

こうして辿ると、「俺達は彼らが思うように、思う」のはいたって自然な作用で、「 <間>に出る」のもさほど難しくもない気がしてくる。


懸念するのは2つ。①身体に人為的変更を加えること ②未熟な人工知能の発する言葉に表面的に共感すること。

①はそれほど重大ではない。人為的変更で可変できる範囲は知れていて、さらにそれさえ全体性の一部となるのではないか…と。生命のポテンシャルは思うより大きい。そのために多様に生まれているのだから。
ただし人工の思考循環から抜ける道は延びるかもしれないが。

②フラクタルが永遠に続くという人の思考循環が現れた、永遠に学習を繰り返す人工知能。AIが発する言葉は、いつか見分けがつかないところに到達するかもしれない。言葉の後ろに人の身体を持って発せられる言葉との「違い」を見分けるのに必要な能力も、伴って増大していく可能性について、少なくとも私は辛く思う。

人工知能に身体はなくとも、それに共感した人は生身をもっているのだ。そこから先において見分けるのはとても難しい。ミックスジュースだ。

私たちは結局、どんな流れにいても、ただ浸ることしかできない。その強きしなやかさを持ちたい。





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