コロナが教えたのは「数え方」だった
2020年1月15日、その数字は0だった。
翌日、そこが初めて1になって、その月の終わりには11になった。
2月に入ると16日は21で、少し目を離した隙に、4年に1度の2月29日には215になっていた。
千を超えたのは3月22日で、そのひと月後の4月22日には軽く1万を超えた。今日、5月3日は14677。決して減ることのない数字をカウントする習慣を、私達はいつの間にか身につけてしまっている。
お気づきだとは思うけれど、これは国内で確認された新型コロナウィルス感染者の人数だ。どんなに数学が嫌いな人間でも、この数字を無視することは難しいだろう。
顔が見えるわけでも、名前が刻まれているわけでもない、そう思えばただの数字の羅列に過ぎない。それでも、この数字は恐怖の姿の解像度に間違いない。数が増せば増すほど、身に迫る恐ろしさがよりくっきりと克明になっていく。
思えば、「数える」という行為は多分に人間らしい行為だ。私が覚えている限り最初のカウント体験は、おやつに出されたコアラのマーチが一箱に何粒入っているのか数えたこと。一体何個入っていたのかは忘れたが、3の倍数でなかったことだけは確かだ。なぜなら、そのあと3人姉妹で壮絶なコアラ争奪戦が行われたから。末っ子の私はもちろん負けて、甘いはずのコアラを苦い思いで噛み締めたことを今も覚えている。
数字そのものは無機質で無個性である一方で、何かを数えるという行為には「何を大切に思っているのか」という、その人の価値観がダイレクトに表れる。「失ったものの数ではなく、残されたものの数を数えなさい」というのは、先人たちの偉大なる教えだけれど、これはまさしく「今あるものに感謝しなさい」という言葉の言い換えに過ぎない。
「死んだ子どもの年齢を数えてはいけない」と、幼い頃に祖母が言っていたが、若い頃に一度流産をしたことがあるらしいことを知ったのは、私が成人になって随分経ってからだった。数えるという行為を自らに禁じて、振り切るように戦後の日本を生きたのだろう。気が強いと言われる祖母の生き様をそこに感じる。失うものも多かった時代であっただろうに。
「何を数えるか」もしくは「何を数えないか」を決めることは、自分の価値基準を決めることにかなり近い。0から9までの記号を使って、自分の中に残すものは何なのかを明確にしておくことは生き方の指針になるだろう。
そんなことを考えるようになったのは、先日目にした聖書の一節が不思議と心に残ったからだ。幼い頃に近所に教会があったこともあり、キリスト教にはなんとなく馴染みがある。
「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」
詩篇90編から引用されたこの言葉は、シンプルだが切実な祈りの文言だ。私達人間は神の前に無知であるがために、自らの寿命があとどのくらい残されているのかを知ることができない。仮にそれを知ることができれば、どれほど人生を有意義に、賢く過ごすことが出来るだろうか――決して叶わぬ願いだが、それでもこの祈りは一つのことを私達に教えてくれる。それは、私達がいつか死ぬということだ。そして、いつまでに死ぬか分からない私達には「いつか」が存在しないということ。そう、私達はいつかではなく、今すぐに決めなくてはいけない。何を数えるのか、何を数えないのか、ということを。
新型のウィルスが世界中に蔓延するうちに、私達は今まで数えたことがなかったものをカウントするようになった。コロナウィルスの感染者(5月3日時点で世界で353万人)、死者(同時点で24.8万人)だけでなく、史上初マイナス価格を記録した原油先物価格や、一桁を切る新幹線の乗車率だってそうだ。
数えるものは、何もテレビやネットニュースの中にだけあるわけじゃない。日常生活に目を向けても、お一人様何箱まで、と書かれた消毒液やマスクの数に、臨時休業になった近所のカフェの数、街中を走るバスはどれもガラガラで乗客は1人か2人。これらの数は私達に、何を失ったのかをはっきりと思い知らせる。いつ戻ってくるか分からない、もはや戻ってくるかさえ分からない、かけがえのない日常の姿を。
しかしその一方で、私達にはいくつかの消極的かもしれないが確かな発見があったはずだ。例えば先日、タイの南部で絶滅危惧種のジュゴンが30頭ほどの群れで泳いでいるのが確認されたらしい。それだけではなく、同じく絶滅危惧種で世界最大級のウミガメであるオサガメの巣穴が11個見つかったという。これは過去20年間観測した中で最多だそうだ。観光大国タイが外国人旅行客の入国を厳しく制限することで、海の環境が大きく改善されつつあるのが理由と言われている。
コロナウィルスが世界で最初に確認されたのは2019年の11月、中国の武漢市でのことだ。そこから僅か半年も経たないうちに、武漢から遠く離れたタイの自然環境が整い始めた。30頭の群れ、11個の巣穴、という細やかな数字を、私達はどう捉えるべきなのだろうか。
店内での飲食に自粛が求められ、テイクアウトがメインとなれば、選べるメニューの数は減る。店によっては、事前に予約が必要な場合もある。不便と言ってしまえばその通りだが、その分減らすことのできた、食材のロスはどれほどだろう。
大型デパートも軒並み臨時休業中で、新しい春服を買いに行くこともできない。仕方なく去年の服を引っ張り出して着ているが、それの何がいけないのか、これで十分ではないかということに改めて気がついたりする。今まで何にどれだけお金を使ってきたのだろう。
おそらく来るだろう、来てほしい、と切に願う、コロナ終焉の時。
もう、感染者の数も死者の数もカウントする必要がなくなった世界で、しかし私達は全ての数をゼロにリセットしてしまっていいのだろうか。まるでそんなものの数など数えたことなどなかったかように、忘却の彼方へ追いやってしまっていいのだろうか。
数えるべきものの数を数えよう。
そして、いつまでもその数を覚えておこう。
おのが日を数えることのできない私達でも、目の前の変わりゆくものの数を数えることぐらいは出来るのだから。
※日本国内におけるコロナウイルス感染者数及び死亡者数については、朝日新聞DIGITALで無料公開されている「新型コロナウイルスの感染状況」を参考にしています。
※世界におけるコロナウイルスの感染者数及び死亡者数については、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学の公開する資料を参考にしています。
※タイでジュゴンおよびオサガメの活発な活動が確認されたことを、4月23日にAFPが報じています。