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短編小説「伊良湖デイト」(2023)

 山下宗司(やました・そうし)と鈴木晴星(すずき・はるね)は二年同棲している。彼らがどこで出会ったか全く知られていない。薄暗いじめじめとしたアパートに住んでいる。宗司はここで晴星にプロポーズをした。しかし晴星にとっては二回目のプロポーズであった。結婚式の日取りも決まっていた。彼らの結婚式の半年前、晴星は宗司にこう言った。

 「宗ちゃんの車、少し汚れているから車を洗ってきてあげるね」と彼女は言い、笑った。「ちょっと車を綺麗にしておかない?」

「僕はちょっと忙しいんだよな。ありがとう。頼んだよ」と彼は言った。

 宗司はめったに外を出ることがない。職業は小説家だそうだ。彼は三十二歳、終日書斎にこもったきりほとんど出て来ることはない。しかし実際は世間が言うような小説家ではない。彼はよく書斎で電子キーボードを弾いていることがある。余りに長く弾き込んで、汗をぐっしょりとかいていることなどもある。彼は作家である。まだ著作はない。

 晴星は彼の車の置いてある駐車場へ行った。彼の車を洗車するために。彼女は車をガソリンスタンドに併設されている洗車場で洗車した後、洗車場の隣りの駐車場で周囲を確認しながら彼の車の裏側にGPSを取り付けた。そして車内のゴミや埃をきちんと取り除いた。春の柔らかな日差しがバックシートを明るく照らした。その日の午後、晴星は友人のマイコにメッセージを送った。二日後の四時五十八分に電話をかけるようにと。晴星はモデルである。彼女の特技は写真を撮ることとファッションコーディネート。

 その日の夕方、宗司は晴星にボードクラブに行くと言って嘘を付いた。実はスペイン語教室へ行った。

 「なぁ、車の鍵を貸して。ちょっとボードクラブに行ってくる」と彼は嘘を付いた。

「わかった。はい」と彼女は言った。

 彼は車を運転し始める前に座席にもたれかけ小声で言った。

 「あっ、今日はドミンゴ先生のレッスンか」

「uno( ウノ) , dos  (ドス), tres , (テレス), cuatro (クアトロ), cinco  (シンコ)」と彼はカバンの中からスペイン語の教科書を手に取って一から十まで溌剌にスペイン語で数えた。それから彼は車のエンジンをかけスペイン語教室へ出発した。中古の軽自動車は静かに街道を軋って行った。落陽していた。街のビルの上に夕月が美しくかかっていた。

 翌日、宗司と晴星は伊良湖近くの海沿いをドライブしていた。真昼中に。白い雲が日の光を帯びて緑と共に光っている。二人は午前中に結婚式の準備を進めていて、彼女は式のドレスの試着が終わったばかりで疲れていた。結婚式場からの帰り途の車の中、彼女は彼に言った。

 「はあ、私、前の時と比べてウエストが少し太くなったみたい」

「ああ、僕は疲れた」と彼は言った。

「何もやっていなかったじゃない!」と彼女は言い怒った。

「いや、僕は君のカバンを持っていたよ」と彼は言った。薄紫色の小さなパースバッグの手提げにはゴールドのチェーンがついている。

「しかし最初に着たドレス?あれはいけないね。中国の結婚式みたいになりそうだ。白のチャイナドレス風!別に中国が悪いって訳じゃなくてね。ここは日本だ」と彼は不満げな顔で言った。

「何言ってるのよ!」と彼女はすかさずに言った。まるでアメリカ南部のコメディー映画に出てくる女優の三文芝居のように。

「そう言えば宗ちゃんのお姉さんに久しぶりに会った。私のことを気に入ってもらったみたい。けどお姉さん、私の身なりを見て〈質素〉と言ったわ」と彼女は言った。彼女は宗司の姉に最後に会った日の出来事を思い出した。

「そうなんだ。姉さんはマンション経営や管理のビジネスで忙しいから最近会ってないな」と彼は呑気なな口調で言った。

 晴星は〈質素〉と言われたことにずいぶん不満だった。なぜなら彼女はモデルだからだ。彼女の専門分野はファッションコーディネート。それに加え宗司の姉は企業経営者の資産家で大金持ちであったから彼女は彼の姉には気に入れられたかったのである。

 ドレスの話が終わり、ハネムーンの話が始まった。それと同時に一羽の黒雁が街道を斜めに突切るように飛びちかった。時刻は一時を過ぎていた。

 「ねぇ、私ね、ハネムーンはタイに行きたい。バンコクのソンクラーン祭りに参加したいの」と晴星は突然言った。

「何だいそれ?楽しいの?」と宗司は首を傾けて言った。

「えっと水鉄砲でお互いに水を掛け合うお祭りらしいの。素敵なお祭りだと思わない?」

「いや別に、象には乗りたいな」と彼はタイで象乗りをしたことを思い出しながら言った。 

「馬鹿ね。象乗りは高額だわ。チップも要求してくる。宗ちゃんはトゥクトゥクがお似合いよ」と彼女は嘲笑って言った。

「そうかな?」と彼は言った。彼は不思議に思った。

「それか網走がいい。今年のクリスマスに。私、雪を見たことがないの」と彼女は幸せそうに言った。

「雪は白いよ」と彼は冷たく言い返した。それから晴星が歌い始めた。

「雪やこんこ 霰(あられ)やこんこ。降っては降ってはずんずん積もる。山も野原も綿帽子 (わたぼうし)かぶり、枯れ木残らず花が咲く。」と彼女は口ずさんだ。

「あのさ、今春なんですけど」と彼は怪訝な顔で言った。

「いいじゃない。別に」と彼女は言った。

「ほら、こう何か春っぽい、アイドルの曲を歌ってよ。例えば、アクロバティック・アクロバティックとかさ」と彼は言った。

「嫌」と彼女は軽蔑した口調で言った。

「いいじゃない。キッラ キラメク 海辺の風 感じて 空を見上げて あなたを想うの 零れていく 涙の理由(わけ) 察して 笑顔のあなた ここに置いていこう」と彼は熱唱し自分の世界に入っていた。

「もう辞めて!」彼女は大きな声で言った。「歌ってないでちゃんと運転しなさい!」

「はい。通常運転です。なんかトイレに行きたいな」と彼は言った。なぜなら晴星は宗司に透明のプラスチックコップに何度も水を注いでいたからだ。彼がそのコップの水を飲み干したらすぐに彼女は水を注ぐ。まるで動物実験のように。彼は彼女が水を注いでくれたらありがとう、と言いそれを飲み干した。またそれを十回は繰り返していた。  

 宗司はトイレ休憩を取るためにコンビニエンスストアの駐車場に車を停めた。晴星は彼にコーヒーを買って来てと頼んだ。宗司がトイレ休憩から帰って来て、彼は一杯のドリップコーヒーの入ったカップを手にしていた。彼女のために。

 「言われた通り買ってきたよ」と彼は車の助手席の窓越しから言った。

「はい。どうも。遅かったね。冷めてしまうよ」と彼女は車内からコーヒーを受け取って言った。

「淹れたてだよ」と彼は不満足な顔をして言った。そして宗司は車内に戻り、ドアをそっと閉めた。晴星はコーヒーを飲んでいた。彼女は人前で食べ物は食べないし飲み物を飲まない。だから彼女は手でコーヒーを隠して宗司に対して後ろを向いて飲んだ。

 「うっ苦い、苦い」と彼女は小声で言った。

「えっ?コーヒーは苦いよ」と彼は怪訝な表情で言った。

「コーヒーにキャラメルシュガーを入れた?」と彼女は彼のことを疑って言った。

「入れたよ」と彼はコーヒーにキャラメルシュガーの入ったボトルを二、三回振ったことを思い出しながら慎重に言った。

「全然足りないじゃない。キャラメルシュガーが。こんな苦いコーヒーは飲めない」と彼女は急に声を荒げて言った。まるで壊れたラジオカセットから突然流れてくるニュースのように。

「無理に飲まなくてもいいよ」と彼はなんだかすまないという様な顔つきで言った。時刻は午後二時二十五分だった。もう一時間はドライブをしている。彼女は咄嗟に言った。

「宗ちゃんはね、私が昔、静岡のプロペラ工場で働いていたことを思い出させたね。夏の給湯室のあの不味いコーヒーを。もうあれはトラウマ。あの遺跡みたいな苦い味のコーヒー」と彼女は淡々と早口で言った。

「ちょっと待ってくれ。それならもうコーヒーを飲む必要はない。それともあれかい?カフェイン中毒なのかい?カフェインは毒だぜ」と彼は早口で言った。彼はもう一度トイレに行きたいのを我慢していた。

「うるさい!黙ってなさいよ」そう言って彼女は怒って車のワイパーのレバーを押した。ワイパーを動き出したのと同時にしばらく沈黙が続いた。それから晴星はバックミラーを自分の方に動かして化粧を直し始めた。化粧ポーチからコーム型のマスカラを取り出しまつ毛を整え始めた。ナチュラルに仕上げていた。何度も丁寧に注意を払い塗り重ね、まつ毛の一本一本をセパレートさせていた。色はボルドーというよりバーガンディに近い色合いであった。彼女はスマッジプルーフ(耐脂性)タイプのものを愛用している。まつ毛のカールをより維持するために。

 突然、友人のマイコから以前送った連絡の返信が返ってきた。その文面は「わかった。例の保険の資料(アーカイブ)も用意しておく」と記されていた。しばらく晴星は友人とのやり取りがあり、それから彼女は言った。

 「早く出して、車」

「今化粧を直していたんじゃないか?」と彼は口をようやく開けた。

「もう終わった」と彼女は呆れたような顔つきで彼を見ながら言った。

「君はね、綺麗で素敵なんだけど、精神のどこかに支障をきたしているらしい。恐らくどこか心のある部分のネジが緩んでいるんだよ。あるいはきつく締めすぎている」と彼はそう言い、さらにこう提案した。

「だからね。サイコパステストを受けてみたらどうかな?」

「は?何言ってるの?失礼ね。早く車を出して」と彼女は言い言葉を濁した。

「はい」と彼は答えた。そして宗司は車のエンジンをかけた。彼は車をバックさせてハンドルを左に切り道路に入れさせてもらった。それからハザードランプを三回光らせた。

 彼らは帰路をドライブしていて宗司はビニールハウス近くの春キャベツ畑の前で車を停めた。時刻は四時二十分を過ぎた頃であった。日の光は弱まり柔らかなオレンジ色の光が春キャベツ畑を照らしていた。

 「重大な話がある。だからこの土地に来たんだ」と宗司は深刻な面持ちで言った。

「それで?」と晴星は優しく言った。飲みかけのコーヒーはもうすっかり冷めていた。

「そういえば前に君の両親が僕の育てているスノーインサマーがベランダから少しはみ出して咲いていたところ、勝手に全部切ってしまったことがあったよね。それ以来僕はキャベツの不買運動をしている。そして君の両親はキャベツ農家だ」と宗司は言った。彼の心のダムに堰き止められていたものがよどみ渦巻放出された。

「で、何が言いたいのよ?」と晴星は淡々と言った。

「実はね。僕は君と結婚したくないんだ」と彼は言った。

「はぁ?何とぼけたことを言ってるのよ。私たち結婚するのよ。親戚それから友人に仕事の同僚と十人は招待した。今さら式をキャンセルするなんてありえない!この頓馬!」と彼女は早口で言った。季節は変わろうとしていた。梅の花が散り桜の花が咲き始めた頃の出来事であった。春キャベツ畑の近隣の民家では子供たちがイースターの卵を隠しているようだった。賑やかだがとにかく落ち着きのない声が散らばっていた。賑やかな声がいつもしんとした春キャベツ畑に満ち渡った。

「僕は鎌倉に引っ越したいんだ」と彼は言った。それから彼はこう続けて言った。

「海の見える平屋に一人で余生を暮らす。それが僕のささやかな夢だ。そして庭にハーブ園を作って、それから洗面室をダブルシンクにして。それから和室を琉球畳にして、それから書斎にシャルロット・ペリアンドの椅子を置いて・・・・・・」と彼は語った。その時、一台の業務用の大型トラックがビニールハウスの前を大きな音を立てて通り過ぎた。そして晴星が歌い始めた。その声は不気味であった。古木を螺旋状に這う蛇のような不気味さであった。

「雪やこんこ 霰やこんこ 降っても 降っても まだ降りやまぬ 犬は喜び 庭駆(か)けまわり 猫は火燵(こたつ)で丸くなる」と彼女は歌った。彼女は『雪』の二番歌詞をなにかの短編小説を読みながら歌った。その短編小説のタイトルは『アイスコーヒーを片手に』であった。アイルランドの作家ヘンリー・アンダーソン・Jrの著作である。妖精の出てくるおとぎ話である。本の中に菫の花が枝折の代わりに挿まれてあった。そして彼女は一冊の本をカバンの中に閉まってから何か光る尖ったものを取り出した。それから彼女は言った。

「結婚してくれなかったら私、宗ちゃんを殺すから」と彼女は言った。そして彼女は光る尖ったものを一振りした。

「アーッ」と彼は叫んだ。彼は彼女にナイフで刺されてしまった。フランスのオピネル社の小型ナイフで。それはカーボン・スチール製のナイフであった。そのウッドハンドルは血で染まっていた。

「痛えな。ふざけんなよ。参った。参ったな。はぁ、死ぬかと思った」と彼は声を荒げて言った。彼の目は充血していた。

「ふぅん。切り傷で済んで良かったね。このおたんこなす!」と彼女は言い左手に持っているそのコンパクトなフォールディングナイフを右手を添えて慎重に折りたたんだ。

「わかったよ」と彼は小声で言った。太陽が厚い雲に覆われていた。その寥々たる春キャベツ畑の角には一本の桜の木が花を咲かせていた。五分咲きといったところであった。雨気を帯びた夕日がぱっと桜を明るく照らしてその桜から一枚の花びらが落ちていくのを宗司は目で追った。

 翌朝、晴星は宗司を呼んだ。二人は海の見える所までドライブし臨海駐車場に車を停めた。

 「ねぇ、見てあの海鳥!素敵!」と晴星は言った。

「ああ、あれは珍しい渡り鳥だね。もしかして黒雁かもしれないね」と宗司は言葉を返した。晴星は窓の外の鳥を静かに眺め、目を閉じた。

「へぇー、オリーブオイルで揚げたらおいしそう」と彼女は言った。それからスマートフォンで鳥を写真に撮った。

「・・・・・・はあ」と彼は大きくため息をついた。その時、鳥はもう彼らの視界から姿を消してしまった。

「この海の辺りには魚はいないのかしら。あみで真鯛でも捕まえたらね。私、三枚おろしにするのに。だって、めでたいじゃない。もうすぐ私たちの結婚式よ」と彼女は期待を膨らまして言った。まるで明日の遠足を楽しみに待ち望んでいる子供のように。

「あのね、生き物を見て〈おいしそう〉とか調理方法を考える癖は良くないよ。第一、アニマルライツがない。君は生き物に対する倫理観というものが欠如している。おかしいよ」と彼は説教じみた口調で言った。

「何がおかしいの?」と彼女は髪をかきあげながら言った。

 それから二人は車の外に出て伊良湖の海を眺めた。宗司はトリコロールカラーの鮮やかなレジャーシートとを脇に抱えていた。晴星はサングラスをかけ小型のポータブルオセロゲームを左手に持っていた。二人はライトブルーの伊良湖の海の前にレジャーシートを丁寧に敷き、海を背中にして寝そべった。時刻は十二時二十分を過ぎていた。日が照っていて、六月のような暑さであった。本当はまだ四月だというのに。海を泳ぐには早過ぎるし、また半袖のシャツを着るのも早過ぎる季節であった。海はどこまでもライトブルー、そしてホワイトとグリーンが入っていた。二人は砂浜で寝そべっていた。黄昏れていた。あるいはぼーっとしていた。宗司は最後にぼーっとしたのはいつなのか思い出していた。しかし思い出すことは出来なかった。晴星はかけているサングラスを左手で下の方にずらし宗司を一瞥した。二人はピクニックを時を忘れて楽しんでいた。彼らは仕事に忙殺されていたので人生を楽しむことを忘れかけていた。海を目近で見ることさえ忘れていた。海を見ない生活、果たしてそれが人生と言えるのか、と宗司は心の中で呟いていた。波の音が静かに聴こえていた。

 「ねぇ、海の向こうはフィリピンかしら。フィリピンって日本食レストランはあるのかしらね」と晴星は言った。

「ああ、あると思うよ。大抵韓国人が経営してるよ。韓国人はやり手だから」と宗司は返答した。

「私、『はじめてのトッポギ』と『私はケンチャナよ』っていう韓国ドラマを見てるわ。私、俳優のチョ・ヌンソクのファンなの」と彼女は嬉しそうに言った。

「ふぅん。日本人は韓国人に一人辺りのGDP を抜かされているからね」と彼はジェラシーを感じながら言った。

「GDPって?」と彼女は言った。彼女はその意味をわからないでいた。

「よくわからない。Gの頭文字はグレートかな?つまり韓国人はすごいのさ」と彼は自信を持ってはっきりとした口調でいった。

「なるほど」と彼女は言った。彼女は納得がいった表情を浮かべていた。

「この辺りの魚はフィリピンのルバング島に輸出される。風が吹けば桶屋が儲かる。魚を獲れば韓国人が儲かるってわけだ」と彼は長々と説明した。

「魚の乱獲は良くない」と彼女は心配そうに言った。

「そうかもしれないね」と彼は言い頷いた。

 その後、宗司はトリコロールカラーのレジャーシートを一人で折りたたみ、二人は灯台の前まで歩いた。風が強く、風の音のせいで二人の会話はまったく噛み合わなかった。風の音だけがこの静かな海をビュービューとかき乱していた。二人は灯台の前で記念撮影をしていた。彼らは特に話を交わさなかった。海とそして風の音だけが聴こえていた。

 宗司はグレーのバックパックから双眼鏡を取り出し海を眺めていた。彼は黄色とブルーのウィンドブレーカーを着ていてフードを頭に被っていたのでまるで海上保安官のような風貌であった。晴星は灯台の手前の砂浜で首にぶら下げていた黒の一眼レフカメラで写真を撮っていた。そのうちの一枚は宗司を撮ったものであった。そして二人はお互いを見た。宗司はスマートフォンを左手に縦に持ち晴星を動画撮影した。彼女の背後の海は陽光で海一面が輝いていた。宗司はこれが最後のデートになると思っていた。

 その日の午後、もう辺りは薄暗くなっていった。二人は終日、伊良湖の海で遊んでいた。帰宅途中、彼らは伊良湖から二、三キロ離れた距離のブランコのある公園を訪れた。公園のブランコは樹の影で涼しかった。風がおりおりと心地よく吹いて通った。竹藪には薄い夕日がさしかかっていて、公園は静かで、さびしく、草は心地よく刈取られていた。ドッジボールの線が明らかに残っていて、長いベンチの隅に誰かの忘れたボールが置いてある。公園の一隅には老人会の草木が植えられてあった。二人は緩やかにブランコまで歩いた。

  晴星はブランコに乗り勢いよく漕ぎ始めた。宗司は彼女が吹っ飛んでいってしまうのではないかと心配した。彼女は徐々にブランコを漕ぐ勢いを弱めていった。それからやっと彼女の口が開いた。

 「ねぇ、どうして私のことが好きなの?」と彼女は話かけた。

「よくわからない。あのさ、突然なんだけどさ、僕、君と別れたいんだ」と彼は心の内を明かした。

「・・・・・・」彼女は唖然としていた。フリーズしたコンピュータのように彼女の表情は一ミリも動くことはなかった。放心していた。ブランコに乗った彼女の身体だけが鈍い音をたててブランコと共に揺れていた。

「僕は自分が書いている小説を完成させたいんだ。ユダヤ人の踊り子がホットケーキを作る小説。僕は独りで静かに書きたいんだ」と彼は言った。彼の目には涙を浮かべていた。その目には晴星がブランコに乗っている後ろ姿が映っていた。彼は彼女の後ろに立っていてサポートしていた。彼女はしばらくして正気を取り戻した。

「小説なんてくだらない。ユダヤ人の踊り子なんてホットケーキを作らない!」と彼女はホットケーキのHの発音を強調して言った。ハットケーキ(縁のある帽子のケーキ)のような発音であった。

「それは偏見だ」と彼は彼女の差別的な発言について異論した。彼は大学時代にアジア系アメリカ人のジェンダー論の講義を取得していてフェミニズム論に造詣が深かった。彼は〈ウーマン・リブ〉という白いロゴの入った黒いミニT シャツを着て大学のキャンパスでロビー活動をしたことがあった。その年の夏、彼はロビー活動中に警備員に注意された。彼はケント紙にバイオレットカラーのマジックで〈リベラル・フェミニズム〉と書き、校内で〈リベラル・フェミズム〉と叫び、デモを独りで行っていた。その年の秋、彼の通っていた私立大学の男性教授が女性大学教員に対してのアカデミック・ハラスメントがあった。その男は教授の職を退くことになってしまった。宗司は彼からフェミニズム批評に関するありとあらゆる古今東西の文学を教えてもらっていたというのに。

「僕は結婚のことなんてまったく気にしないで書いている。それが僕の考えです」と彼は言い、深くため息をついた。

「もうよして。替わって」と彼女は涙ながら言った。右目の下には涙が溢れ頬を伝っていた。一粒のかなし涙が夕陽で照らされていた。気がつくと涙はブランコの椅子の上に落ちていた。さっきまで楽しそうだった彼女の顔がいびつに崩れていく。涙は次から次と彼女の白い頬をほろほろと伝って流れた。涙がシャツの袖で拭いても拭いても出た。それから二人は無言でブランコを交代した。空はもうクリーム色の入った夕日に染まっていた。宗司がブランコに乗ると晴星が『雪』を口笛で悲しそうに歌い出した。

「・・・・・・」宗司はブランコに揺れながら沈黙していた。完全な沈黙だけがそこにあった。曲が終わるころに宗司は殺気を感じた。すると、彼女は突然彼をブランコから突き落とした。

「アーッ」と彼は叫んだ。彼女は涼しい顔をしていた。ブランコの後方には八重桜が満開に咲いてさわやかなそよ風が二人を包んだ。竹藪の中には椿が紅く咲いて、その縁にある盛をすぎた梅の木は泣いているように見える。

 その日の午後、二人は海沿いを、ドライブしていて帰る途中であった。

 「僕は今、夢の中なのかな。君が僕の腕を刺してから毎日その夢を見るんだ。見たくもないような。フラッシュバックってやつかな」と彼は言った。

「ごめんなさい。私、宗ちゃんのことを愛しているの。つい、カッとなって」と彼女は告白した。海岸に小さな黄色いイルカのサイクルボートが浮かんでいた。

「僕は被害者だ。僕の未来はない。左腕もまだ痛いし、心も痛むんだ。だからね」と彼は言い、上空に飛んでいた鳥を一瞥した。

「私と結婚してくれなかったら、宗ちゃんと一緒にに死ぬわ」と彼女は強い口調で言った。

「冗談はよしてくれ。それに君のサイコパステストの結果は満点だった。もう辞めにしようと思うんだ」と彼は額に汗をかきながら言った。窓の外はもう暗くなり始めた。彼女はあまり嬉しそうにしていなかった。不穏な空気が漂っていた。

 その時、晴星は車のハンドルを切った。

「キャー」と彼女は叫び、「アーッ」と宗司は叫んだ。

 彼らは事故を起こした。車は路肩に突っ込み、白いガードレールに当たって止まった。車の左ドアの部分は凹み白のガードレールのある部分は歪んだ。宗司は目を閉じて、頭を抱えていた。彼は数分の間、意識を失いかけて言葉を一つも発しなかった。晴星は左腕にはめている電波時計を確認し大きなため息をついた。時刻は午後四時五十八分であった。その白い盤面の時計の上部はステンレスが上方に歪んでいた。そして晴星の携帯に電話がかかってきた。彼女は車のドアを開けて外に出た。

 「もしもし私の保険の資料(アーカイブ)はあるかしら。ええ。わかった」と彼女は言った。それから彼女は電話を切り、車の中へ戻った。

「緊急の SOS 電話だったみたい。強い衝撃のせいかしら」と彼女は彼に言った。

彼は目は開いていたが頭をハンドルに強く強打したせいか少しぼーっとしていた。

「はあ。やれやれ。参ったな。僕が一度だって君と死にたいことがあったかい」と彼は言った。そして彼はグローブボックスの中から彼と彼女の名前が記載された婚約届けを取り出してそれを彼女に渡した。

「ああ、うれしい」と彼女は声高々に言った。「私は宗ちゃんと一生夫婦でありたいの。人生はあまりに短いの。宗ちゃんは小説を書く以外にも、やるべきことはたくさんあるよ」と彼女は続けて言った。彼女は拇印で婚姻届に判を捺した。

 交通事故から二年の歳月が経っていた。宗司には一本の白髪が生えていてた。薄い髭などを生やして髪を綺麗に分けていた。二人は海の見える臨海駐車場で口論していた。

 「宗ちゃんって最近私の言うことをちっとも聞かないわ。いつも『双子の老人』っていう本を読んでばっかりで。私は自分の言いたいことを言わせてもらう。私が声をかけようとするといつも怒鳴るんだから」と晴星は言った。彼女の不満は爆発していた。

「違う。『双子の老人精神医学者とその半生』だよ。フレデリック・バードランドの。まっとうな中産階級を描く一般的な本だ。僕の姉さんが一年前に自殺してから僕の精神は参ってしまったんだ」と宗司は言った。

「そんな事どうでもいい。もう私と別れて。前の夫とよりを戻すの」と彼女はイラつきながら言った。

「なんだって?」と彼は驚いた口調で言った。彼の口はポカンと開いていた。それから彼女は車内のグローブボックスの中から離婚届を取り出し、彼に渡した。

「・・・・・・」宗司は晴星を見た。

「何がおかしいの?」と彼女は言った。車のサイドミラーには友人のマイコが砂浜でダンスをしている姿が映っていた。女はタランテラを踊っていた。

写真『Photography in Atsumi Peninsula, Japan』(2021) より

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