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祀られる他者と共に(「祀画」に寄せて)

”絶対的な異邦人として私を見つめる顔を前にした私の責任こそが、友愛という本源的なできごとを構成する。” 
(エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」)


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「飾る・画」ではなく「祀る・画」である。

言うまでもなく、日常生活に於いて絵は”飾る”ものであり、所有者の生活の内において、その心身の延長である生活空間を装飾するものである。

対して、ここで提示されるのは”祀る”画だ。
この「祀る」とはいかなることだろうか?
「祀画」はどのような可能性を示すのだろうか?




まず通常使用される「祀る」の意味は以下の通りだ。

①神として崇めること。また一定の場所に安置すること

②儀式を整えて心霊を慰め、祈願すること。

類語の「奉る」であれば目上の人に何かを捧げることを意味する。

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「まつる」という語に付随するのは他者性であると仮定しよう。
祀る対象、あるいは祀ることによって繋がることができる何かを「他なる者」として据え置くことで生じる距離を関係性の基礎とすることである。
その対象は「他なる者」として祀られるプロセスを経た後に、ある時には祈りや信仰の対象とされ、あるいはさらに大きな存在への贄(つまりは媒介)として扱われる。
「祀り」に伴う祈りは絶対的な他者への祈りである。対象を他なる者として祀った後に、その時々に設定される集団の目的のためにより外的な存在と内的な集団を繋ぐために利用する。それが「祭り」であり「政り」であったことは多く言及されている。

「祀る」を経由した祈りは他者を他者として据えたままに築かれる関係性とも言える
出発点が対象への共感などの同一性に向かう衝動ではなく、絶対的な他者性を基礎とする祈りである。これは大いなる他者の力によって成仏を願う他力本願の思想に連なる構造にも繋がる思想だ。

仮に、この「祀る」から派生する祈りが他なる物との合一を目指すようなものであったとしても、まずは対象を他者として祀ることが前提とされる。

その祈りはどこへ向かうのであろうか。




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ジョルジュ・バタイユは著書「エロティシズム」において、生の本質には個体が個体としての不連続性を保つことを目指すだけでなく、同時に連続性の中に溶け込もうとする傾向があると述べた。
個としての生命は周りのあらゆる事物から切り離された個体として存在することを下敷きにアイデンティティを確立しようとする。
しかしそこには相反して連続性に溶け込もうとする衝動も存在しており、これを「エロティシズム」と呼ぶ。

二つの個体が結合するイメージは生殖行為全般につきまとうが、ウイルスの場合は一つの個体が分裂するその瞬間に個体が同時に二である瞬間が現れ、その連続性が失われた時に一であった個体は死に、不連続である個体が二つ生じる。

しかしその過程は二つの生き物のあいだに連続性の瞬間を引き入れるのだ。最初の生き物は死ぬけれども、その死の中に、二つの生きものの連続性の基本的な瞬間があらわれるのである。
(ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」)


「飾る」ことは対象を飾る主体の内側に取り込む行為、自己の個別性の内側に連続するものとして引き込む行為とも言える。
同様に「理解する」ことも自らの眼差しや思考の内側に対象を取り込む試みであり、ともすれば自身と同一化させることにより、対象の独立を奪う行為ともなりうる。
誰かや何かを「理解する」ことは必ずしもその対象の自由を担保せず、そしてその実存を認める事とイコールではない。
言い換えるならば「あなたを理解する人があなたを自由にするとは限らない。むしろそれを理解によって奪い取る可能性すらある」という事だ。


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自身との同質性や共通項によって他者を”完全に”理解しようとする行為は、他者の個別性を無化し、置換可能な物事へと回収していく。
個別の他者を自分にとって都合の良い形で全体性や同質性の中に回収しようとする事は、自己以外の実存を認めない独我論的な思考に陥る危険を孕む。

故に、他者を究極的には理解不能な他者として一定の距離に据え、そこから関係性を始めることで他者の実存を認めうる可能性、これが「祀る」という行為が示すものではないだろうか。
それこそがかつて、まれびとをまれびととして、まれびとがまれびとであるが故に同質化せざる存在として祀られた祭りの営みに通底する志向であったのかもしれない。
あるいは、そうした異邦人は、同質化によって全体主義に陥る人間集団へのワクチンとして機能する存在であった、と想定しうる。


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レヴィナスは個々の主体を連続性の中に引き込もうとする傾向を暴力的な「全体性」として捉え、それがファシズムや大きな戦争の礎になった、と述べる。
この全体性は外側からもたらされるものではなく、人間の同質性への欲求により、内側から発生し外部へと侵食する働きである。

これはまさに我々がウイルスの脅威によって直面した事象とも重なる。
ウイルスは内側に侵入することによって、人間の体内を人が個として生きるために最適化された状態から、ウイルスが生きるための世界へと作り替え、その個体性を破壊する。
同時に病とはウイルスに対する免疫系の働きによって認識される事象でもある。侵入したウイルスが侵入された主体の個別性を破壊しウイルスの連続性による支配を目論むと同時に、免疫系による他者の排斥行動が同時に行われる。人類とウイルスの内的な戦争状態である。
そしてcovid-19は、文字通りのウイルス的な身体的への攻撃のみならず、人類の生活や社会システム、さらには思想に対してもウイルスとしての機能を余すことなく発揮した。
同質性への欲求、そして他なる者への排斥、思想を異にするもの同士の分断すらも明らかにしたのだ。
身体的な病に対してはワクチンの開発によって光明が見えつつある。
しかしながらこの分断された社会において、無限に連なる他者に囲まれた世界で、目の前にもたらされた病はいかに治療可能であろうか。


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他者を他者としてその存在を認めること。そこから関係性を築くこと。
個々の存在者の非連続性を破壊しようとするウイルスに対して、「私」の唯一性を崩そうとする衝動に対して、絶対的に他なるものとして他者の存在を認めること。ホロコーストを生き延びたレヴィナスはそこに現前する他者の「顔」を引き受けようと説いた。
covid-19によって顕にされた分断の世界を生きる我々は他者を「祀る」ことから始めても良いのかもしれない。


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※掲載画像は全て白白庵企画『祀画』出展作品

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