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漫才協会改革について考えてみた。2 ~華麗なる浅草笑いの歴史編~

「アメトーーク 漫才協会芸人」を見た影響でこのnoteを書き始めた。
今回が2回目である。だいぶ前回から時間が空いてしまった。すみません。

番組を見ていると様々な問題が漫才協会にはあるようだった。
番組としてはなんとかエンターテイメントには見せているだろうが、錦鯉渡辺の物言いは的を射ているような気がしたし、スピードワゴンの二人がキラキラしていない、まったく魅力を感じないと言った言葉がすべてなような気がした。

何よりの証拠に錦鯉は今年に入って一度も漫才協会の舞台に立っていないという。

しかし、会長としての塙改革はこれからである。

塙会長としてどういう方向に進めていくかは考えているのであろう。
イゲちゃんもアドバイスしていたし、ご自身でSNSやWebなどに力を入れていくとメディアでは語っていた。
その通りで新しい漫協のリーダーズや各種YouTubeなどの取組がなされ始めた。
塙会長は一流芸人であり、アピールや話題を作って認知を増やす能力はさすがだ。素人にはなかなかできない。
理事時代、副会長時代と今までずっと漫才協会の認知を高めてきた。

前回は現漫才協会会長と常任理事であるナイツのお二人の今までを簡単にまとめ、その後に漫才協会理事としてどのような改革を行おうとしてきたかをまとめた。
今回は現在の漫才協会に行きつくまでの大きな歴史を紐解いてみたい。

それは、まずは漫才協会が拠点としている「浅草六区と東洋館」について。
そして「漫才のはじまりと漫才協会について」と、それに対比する形での「コントの歴史」について。

辿れば、東京お笑いの源流は「浅草六区」であり、「浅草フランス座(東洋館)」にあるということがわかるはずだ。


歴史をまとめたら長くなってしまった。
興味がない方は今回は飛ばしちゃってください。

それでは、いってらっしゃい。

浅草六区と東洋館の歴史

浅草は繁栄と衰退を繰り返してきた数奇な街だ。
その中でも漫才協会の本拠地東洋館のある浅草六区からは独特の香りがする。どのような歴史を辿るのだろうか。長い歴史を紐解いていきたい。

江戸時代から芸能の街として栄えた浅草は、明治17年に東京府によって整備され、「浅草公園六区」が新たな一面を見せ始めた。映画館や劇場が軒を連ねるこの地域は、日本一の大衆芸能の街へと変貌を遂げ、やがて賑わいの象徴となった。

そんな中、関東大震災の前に上京し映画館運営会社に就職、終戦時には支配人として活躍していた松倉宇七(現東洋館社長の祖父)は、東洋興業(東洋館の運営会社)を創業することになる。焼け野原となった浅草六区で、日本初の常設ストリップ劇場の建設に挑み、昭和22年にロック座をオープンさせた。この木造二階建て472席の劇場は瞬く間に人気を博し、戦後の浅草の復興の象徴となった。

ロック座の成功を受け、浅草にはストリップ小屋や映画館が次々と建ち、昔ながらの活気が甦った。ロック座ではオープン後一年で、松倉宇七の提案によりストリップショーの合間に軽演劇を取り入れることで、芝居の街としての伝統を受け継ぎつつ、新たなエンターテイメントの形を築いていった。

昭和26年、その勢いは更なる高みへと至り、浅草フランス座がオープンする。この400席を誇る鉄筋三階建ての劇場は、フルオーケストラボックスを備えた当時日本一のストリップ & 軽演劇場となり、瞬く間に大衆の注目を集めた。松倉宇七はその後も新宿フランス座、池袋フランス座と事業を拡大し、浅草六区だけでなく、東京のエンターテインメントシーンに多大な影響を及ぼし続けた。

東洋興業の初代社長となった松倉宇七の下、ロック座とフランス座を筆頭に、東京の笑いと興行の中心地として、またコメディアンたちの夢の舞台として、浅草六区はその色鮮やかな歴史を刻み続ける。

浅草のエネルギーと変遷を色鮮やかに描く。昭和三十年代初期、浅草はまさにエンターテイメント真っ盛りだった。その中心にあったのは浅草フランス座である。ストリップ劇場と幕間に繰り広げられる軽演劇が人々を引き付けていた。

渥美清、後の「男はつらいよ」の寅さんで国民的な愛されキャラクターへと成長するが、その出発点もここ浅草だった。渥美清がこの場に足を踏み入れた時、元現松倉久幸会長は高校生で、そのアドリブの才能に感銘を受けた。脚本作成が追いつかず、アドリブで場をしのぐ渥美清の姿は、松倉会長にとって忘れられない記憶として刻まれている。渥美清はその後、テレビの世界へと引き抜かれ、その道を歩むことになる。

テレビの出現とともに、浅草の軽演劇役者たちが次々と引き抜かれる現象が起こる。フランス座からもコメディスターたちが多数、新たな舞台へと旅立っていった。

昭和三十三年、売春防止法が施行され、隣の吉原遊郭が姿を消すと、浅草のストリップ劇場もその客足に影響を受け始める。フランス座も例外ではなく、客足は減少していった。そこでフランス座は、エンターテイメントの焦点をストリップから芝居に移すべく、建物を大改装。新たな「東洋劇場」が誕生したが、外から呼んだ役者たちの事件事故が原因で、その夢は長くは続かなかった。結果として、1階は再びストリップと軽演劇の場へと戻ることになる。

この変動する舞台に萩本欽一が登場。後の「コント55号」で知られる坂上二郎と出会い、コメディの道を究めることになる。彼の修業時代には、後に漫才協会会長となる青空球児や、東八郎などの先輩芸人たちがいた。萩本欽一は、この環境の中で成長し、「視聴率100%男」としての地盤を築いていく。

そして、忘れてはならない深見千三郎。ビートたけしの師匠であり、浅草のエンターテイメント界では伝説の人物だ。北海道から来たこの男は、彼の鋭いツッコミと毒舌で観客を魅了し、ビートたけしに大きな影響を与えた。フランス座の座長として、演者と東洋館との間で歩興行を行い、劇場を盛り上げる経営者としてもその名を残した。

深見千三郎はテレビに出ることなく、浅草の地で芸を磨き続けた。その生涯は、浅草の輝かしいエンターテイメントの歴史の一部として今も語り継がれている。

昭和39年、東京オリンピックを目前に控え、六区のストリップ劇場に対する取り締まりが厳しくなり、フランス座も閑古鳥が鳴くような状態だった。このとき、以前は人気を博していた浅草末広亭が閉館していたため、浅草に落語寄席がない状況を打開するため、フランス座の4、5階を落語専門の浅草演芸ホールとして再オープンさせることになる。新たな演芸ホールは順調にスタートし、落語が浅草に再び根付くこととなる。

その一方で、1階の東洋劇場は観客動員に苦しみ、テレビへの出演者流出で人気コメディアンがいなくなり、修行する若手も減っていった。昭和40年、新宿フランス座が閉鎖し、翌年には池袋フランス座も閉館、フランス座の名は一旦消滅した。

昭和43年、東洋劇場が閉館し、空いたスペースに演芸ホールを移動させた。そして4、5階を落語以外の色物芸能を行う場所とした。その時松倉久幸氏が東洋興業の2代目社長に就任することとなる。

昭和46年には、深見千三郎が率いるロック座での活躍を経て、浅草フランスを再び復活。深見千三郎は、歩興行の経営手法で芸人や踊り子たちと利益を分け合う経営者として名を馳せた。

その後、ビートたけしが登場。明治大学を中退した後、フーテンの日々を経て浅草の芸人の世界に飛び込み、フランス座でコメディアンとしてのキャリアをスタートさせた。深見千三郎に師事し、タップダンスなども学びながら舞台で芸人としての道を歩むことになる。

しかし、たけしは相方となるきよしと共にフランス座を後にし、漫才コンビ・ツービートとしてテレビで大ブレイクする。一方で、深見千三郎は昭和56年に58歳で芸人を引退し、その後は普通の企業で働き、苦悩の日々を過ごす。そして、深見はある夜の火事で亡くなる。たけしは自著「浅草キッド」で「有名になる事では師匠に勝てたものの、しかし最後まで芸人としての深見千三郎を超えられなかったことを、オイラはいまでも自覚している。深見千三郎はやはり、オイラが超えられないほどのたいした芸人だったのだ。」と語り深見のすごさを語っている。
そうやって浅草六区の一時代は終わりを告げるのである。

深見千三郎の引退後、フランス座は昭和57年に幕を下ろす。創業者の松倉宇七はそれより前の昭和56年にこの世を去っていた。しかし、昭和62年にフランス座は佐山淳の支配人就任により、再び短期間復活し、自主興行で正統派のショーを展開する。佐山の死と共に、フランス座は平成11年まで続いた。

この時代の変遷を通して、フランス座は演芸の歴史において重要な位置を占めており、多くの著名な芸人がここでキャリアをスタートさせ、演芸文化を形作るのに貢献した。そして、その伝統は、ビートたけしはじめ他の多くの著名人によって現代に継承されている。

2000年の新春、フランス座は東洋館として時の流れを経て、再び煌めく演芸の聖地として息吹を吹き返した。その壁は過去の幻影を落としつつ、1階の浅草演芸ホールで心の琴線に触れる落語の妙を披露し、4階では色物の花々が華やかに舞台を彩り続けた。ストリップのネオンが消え去り、その灯火のもとには、純粋な演芸の光が満ち溢れた。

漫才協会は、東洋興業との縁を結び、毎月初旬の10日間、この歴史ある劇場で寄席を行う契約を結んだ。そして2012年、この契約はさらに進化し、1日から19日にわたる長期に渡る演芸の宴が実現した。

今日に至るまで、東洋館は変わらぬ情熱を持って色物専門の劇場としてその使命を全うしている。浅草の地に、昔ながらの賑わいと新たな鼓動が同居する奇跡のような空間。ここには、時代を超えて人々の心を温め続ける、演芸の魂が永遠に宿っているのである。


漫才のはじまりと漫才協会歴代会長について

民俗芸能としての萬歳

平安時代から続く民俗芸能の萬歳は、18世紀前半の上方で小屋掛けの芸能になった。宮中や神社での奉納とは異なり、二人組の滑稽な会話を中心とした笑いを提供した。大阪の前座演芸、俄の軽口と関連がある。
萬歳小屋は落語の人気によって衰退したが、幕末に尾張萬歳や三河萬歳の影響を受けて復活した。「三曲萬歳」が出現し、胡弓、鼓、三味線を使い、小話や言葉遊び、数え歌と楽器の演奏で盛り上げた。これは現代の大喜利に似ており、「アイナラエ」の掛け声が特徴の「奥田節」で締め、立ちながら演じることから「立ち萬歳」と呼ばれた。初代と2代目の嵐伊六がこの形式で名を馳せた。

現代漫才への進化

明治初期には浪曲が生まれ、萬歳や軽口と相互に影響しながら独自に発展した。結果として、上方では二人組以上の滑稽な音曲と話術を基本とした演芸が根付いた。
明治末期、音頭取りの玉子屋円辰が歌や舞、音曲の間に滑稽な話を挟むスタイルで人気を集め、「万才」の名で差別化を図った。円辰の影響で、音頭取りや俄の芸人も万才に転じ、音曲師もスタイルを変えずに万才を標榜し、多様性が生まれた。この流れは砂川捨丸・中村春代のコンビによって昭和中期まで伝えられた。上方では落語が主流で万才師は端席でのみ出演し、音頭や浪曲、義太夫などの主要プログラムに比べて二次的な扱いを受けていた。

東京では、上方出身の梅廼家ウグイスが大正6年に万才を演じたのと同時期に、東京の玉子屋円太郎・玉奴がデビュー。しかしプログラムでは「万才」ではなく「掛け合い」と表記されていた。

その後この万才を発展させていくのは吉本興業である。
当時1920年代後半吉本興業は劇場で民謡や浪曲と少しのお色気のある安来節で人気を博していた。落語の人気に陰りが見えている時期である。そこで次なるものとして「万才」に目をつける。万歳から万才となることで娯楽性が高まり、寄席芸能の一つになっていた。そこで吉本興業は万歳の大会を開催する。
「諸芸名人大会」「全国萬歳座長大会」「万歳舌戦大会」などを立て続けに開催した。お客さんには「投票権」が与えられ投票による人気を決していた。現代のM-1グランプリの先駆けのようなものである。
そして「十銭万才」として庶民が安く楽しめる感覚も作った。
劇場には多くのお客さんが訪れ一日三回の興行となった。大阪の大衆に万才は広がった。

そんな時「しゃべくり漫才」の始祖であるエンタツ・アチャコが登場する。
横山エンタツ・花菱アチャコによるコンビだ。2人による万才は今までのものと全く違う新しいものであった。
着物ではなく洋服で舞台にあがり「キミ」「ボク」と呼び合うなど斬新だった。歌も踊りもないしゃべりだけで勝負するものであった。話のテーマも日常をテーマにしたものになった。

そこで1933年吉本興業は大きな歴史的改革を行う。
「万才」を今の「漫才」という呼びに変えるのである。漫才という言葉は吉本興業が作ったものであり、漫才は吉本由来のものであると言われるのはここら辺の歴史が影響している。
そのため吉本興業は現在も漫才というものに重きを置いて経営しているのである。

そして1934年エンタツ・アチャコによる名漫才「早慶戦」がラジオで流れる。
吉本興業は今の賞レースの基を作り、しゃべくり漫才の始祖をデビューさせ、漫才という言葉を作り、ラジオというニューメディアでの戦略をこのころから取っていたのである。

東京漫才のはじまり

そして視点を東京に移す。
昭和初期、東京の演芸界に革新をもたらした漫才コンビ、東喜代駒・駒千代は、群馬県館林出身の喜代駒を中心に活動を展開していた。喜代駒は、育ちながら演芸に対する深い愛着を抱き、夜ごとに芸人たちを招いては豪遊する日々を送っていた。そうした中、政財界や新聞記者との交流を深め、自身も演芸の道を歩み始めた。

彼の舞台人生は1923年ごろから東京で脚光を浴びるようになり、1925年には落語家出身の柳亭左喬をパートナーに迎え、「一人万才」から「二人万才」へと漫才の形式を変化させた。喜代駒と左喬のコンビは、お座敷や寄席を中心に活動し、その演技は次第に人々の注目を集めるようになった。
その後、1928年には新たな相方として隆の家連のメンバーを迎え、コンビ名を「東喜代駒・駒千代」として活動を継続。彼らは東京漫才における革新者として名を馳せ、フロックコートに身を包み、鼓を持って舞台に立つというユニークなスタイルを導入。このハイクラス萬歳は、東京演芸界において新しい風を吹き込むとともに、漫才を一般の演芸として確立させた。喜代駒のこの独特のスタイルは、上方漫才とは異なる東京独自の漫才文化を形成し、後に「東京漫才の祖」と称されるほどの影響力を持つに至った。
喜代駒はまた、歌舞伎役者の市村羽左衛門の声色を得意とするなど、多彩な才能を発揮。1931年には漫才コンビを解消し、漫談家へと転身。時事ネタや歌謡ネタを取り入れた漫談で人気を博し、その芸はレコードにも残されている。彼らの業績は、後の演芸界に大きな影響を与え、漫才の可能性を広げたと評価されている。

柳家金語楼は、1901年に生まれた多才なエンターテイナーで、喜劇俳優、落語家として活躍した。東京で吉本興業に所属し、エノケン・ロッパとともに三大喜劇人の一人として知られていた。戦前にはエンタツ・アチャコの影響を受け、二人の弟子、柳家梧楼と柳家緑朗に掛け合い漫才をさせた。これが改名しリーガル千太・万吉の始まりとなる。戦後は金星プロを立ち上げ、独立して活動を続けた。

漫才協会歴代会長について

リーガル千太・万吉は、金語楼が属する一座の落語家から漫才コンビに転向した。1934年に正式にコンビを結成し、リーガルレコードと契約。戦時中は柳家千太・万吉に名前を変え、200枚ものSP盤を吹き込んだ。戦後はラジオで活躍し、サラリーマンの会話のような掛け合いを特徴とした漫才で高評価を受けた。
1935年、「帝都漫才組合」は設立された(リーガル万吉・千太は関わっていない)。しかし、第二次世界大戦の終戦後、多くの漫才師が失われ、劇場やプロダクションの運営も困難になった。この状況の中で松鶴家団之助が団之助芸能社を、秋田實がMZ研進会を立ち上げるなど、漫才の復興に向けての動きが見られた。その後、演芸プロダクションや劇場が再び盛り上がり、多くの漫才師がそこに所属するようになった。
1955年(昭和30年)、漫才界の振興と研究のため「漫才研究会」が設立された。この組織は現在の「漫才協会」の前身であり、初代会長にリーガル万吉が選ばれた。彼はこの重要な役割を1年間務め、漫才の普及と発展に大きく貢献した。万吉の経験と尊敬される地位は、漫才を芸能界で確固たるものとするために必要なリーダーシップを提供した。この時代の他の著名な漫才コンビには並木一路・内海突破、夢路いとし・喜味こいしがいたが、金語楼とリーガル万吉の影響は大きく、東京漫才の基盤を作ったと言える。

都上英二は昭和期に活躍した漫才師であり、東京漫才の祖と言われた東喜代駒の弟子として漫才の世界に足を踏み入れた。彼はその後、漫才協会の2代目会長を務め、芸界の政治的な動きにも影響力を持っていた。福岡出身の英二は、大阪や地方の端席を回る芸人としてキャリアをスタートさせ、大空ヒットと出会い、コンビ「青空クリーン・大空ヒット」を結成。その才能を認められ、かしまし娘の両親の一座に加わり、正司歌江とのコンビを組んで芸の幅を広げた。さらには、かしまし娘のテーマ曲も作曲するなど、音楽面でも才能を発揮した。
夫婦音曲漫才コンビとして妻の東喜美江と共に看板となり、後にその弟子である東和子と再婚し二代目喜美江を名乗らせた。彼のステージでは、ギターやハーモニカを駆使して観客を魅了した。特に「歌と笑いで旅姿」では、喜美江が三味線を弾きながら「祇園小唄」を歌い、英二はハーモニカで伴奏し、時には鼻でハーモニカを演奏するというユニークなパフォーマンスで知られていた。1979年に英二が亡くなるまで、二代目喜美江とともに舞台に立ち続けた。漫才協会を率い、浅草松竹演芸場をはじめとする演芸場の発展にも尽力した都上英二は、昭和の漫才界において重要な足跡を残した人物として記憶されている。

コロムビア・トップは、1922年浅草で生まれた。彼は日本の漫才界で著名な人物となり、後に政治家としても活動した。1940年に漫才師としてのキャリアをスタートさせ、戦時中は陸軍に入隊し、ラングーンでの駐屯経験もあった。戦後、「青空トップ・ライト」として漫才コンビを結成し、相方の死後は「コロムビア・トップ・ライト」として活動を再開した。
コロムビア・トップ・ライトはボケ担当として、風刺と時事ネタを織り交ぜた漫才で知られ、「起き抜け漫才」などのラジオ番組で一世を風靡し、時事漫才の祖と称された。また、彼は漫才協会(旧・漫才協団)の三代目会長として、東京漫才界において大きな影響力を持ち、その地位から多くの漫才師たちのキャリアに影響を与えた。
また政治の世界にも足を踏み入れ、1974年に参議院議員に初当選し、以後三期にわたり務めた。漫才協会の会長職と政治活動を並行して行い、特に障害者福祉に力を注いだ。
テレビでも活躍し、懐メロ番組など多数の司会を務め、昭和歌謡の普及に貢献した。野球への熱い情熱も公私にわたって知られ、特に東京巨人軍の熱狂的なファンだった。
82歳で亡くなり、死没日には正四位に叙された。トップが東京漫才界に残した遺産は計り知れない。コロムビア・トップ・ライトとして、また漫才協会の会長として、彼は日本のエンターテインメント史において不滅の足跡を残した。

リーガル天才、は1924年に神奈川県で生まれ、昭和中期から平成初期にかけて活躍した漫才師である。彼は高峰(玉川)一門に属し、1952年に「曽我天才・坂東秀才」として漫才コンビを結成した。彼らは1956年、漫才の師匠であるリーガル千太・万吉から屋号を受け継ぎ、「リーガル天才・秀才」として活躍を続けた。
リーガル天才は寄席の高座はもとより、テレビやラジオの演芸番組でとぼけた味と鋭い社会批評で人気を博した。しかし1970年10月13日、放送業界の芸人軽視の風潮に不満を抱き、テレビやラジオの出演を拒否するという強硬な措置を取った。この出演拒否は1980年に解除された。
彼の漫才への貢献は多大で、1988年には第43回文化庁芸術祭賞を受賞し、1991年には紫綬褒章を受章する栄誉に輝いた。また、漫才協会(当時漫才協団)の第4代会長として1993年から1998年まで務め上げ、この組織の発展にも大きく貢献した。
2004年80歳でこの世を去ったが、その生涯は漫才界に深く刻まれている。

内海桂子は1922年に生まれ、漫才師や女優として活躍し、日本の演芸界に大きな足跡を残した。
彼女の漫才キャリアは、1950年に内海好江と組んだ「内海桂子・好江」の音曲漫才コンビから始まり、約半世紀にわたって続いた。コンビは1997年まで活動し、その間、内海桂子は横浜放送映画専門学院で専任講師を務めたり、新しい流行や時事ネタを漫才に取り入れるなど、時代の先端を行くスタイルで人気を集めた。
漫才コンビとしての活動を終えた後も、内海桂子は演芸界での影響力を保ち続けた。1998年にはリーガル天才から漫才協団第5代会長の後継者に指名され、1999年には77歳で24歳年下のマネージャー成田常也と結婚した。結婚は戸籍上での初婚だった。
2005年には漫才協会が社団法人としての法人格を取得し、その改称にも関わった。2007年には会長職を青空球児に譲り、名誉会長に退いた。同年、東京駅の階段で転倒して手首を骨折したが、入院中に乳癌が見つかり、手術を受けて復活した。
内海桂子は自身の演芸だけでなく、教育の分野にも影響を与え、内海一門を築いた。ウッチャンナンチャンやナイツといった有名芸人を直弟子に持つなど、後進の育成にも力を注いだ。
2010年にはTwitterを始め、ファンとの交流にも積極的だったが、2020年4月を最後に更新が止まった。
2020年8月22日、多臓器不全のため97歳で亡くなった内海桂子は、遺族の意向で密葬が行われた。彼女のTwitterアカウントは彼女の死後、突然活動を再開し、ファンからは驚きの声が上がったという伝説もある。
彼女の長い芸能生活は多くの人々に愛され、今も語り継がれている。

青空球児・好児は、1965年に結成された漫才協会所属の漫才コンビで、青空一門の一部である。彼らは、漫才界で長年にわたり活躍し、特に「ゲロゲ~ロ」というギャグや逆さ漫才で知られ、センターマイクを使わずに漫才を行うスタイルが特徴だ。1973年には第21回NHK新人漫才コンクールで優勝を飾り、1979年には漫才協団(現:漫才協会)の真打に昇進した。
青空球児は、1941年8月17日に神奈川県横浜市で生まれ、ボケを担当。高校卒業後、アメリカンボトラーズで働き、芸能界に入る前に森川信の芸能学校を出た。その後、コロムビア・トップに師事し、1960年には浅草公園六区の「東洋劇場」でコメディアンとして修行を積んだ。いくつかのグループを経て、現在のパートナー好児と漫才コンビを結成し、人気を博した。
漫才協会の第6代会長を務めた後、2023年に名誉会長の職に退いた。
一方、好児は1943年10月2日に東京都で生まれ、後に政界に転身し、2003年から世田谷区議会議員として活動を続けている。無所属の立場から6回当選し、地方政治においても貢献をしている。

ナイツは塙宣之と土屋伸之による日本のお笑いコンビで、大学の落語研究会出身の二人が結成した。漫才を中心に活動しながら数々の賞を受賞しているが、M-1グランプリでは優勝には残念ながら至らなかった。その舞台にこだわる姿勢と質の高い漫才でお笑い界で高く評価されている。
塙宣之は1978年生まれで、ナイツのボケを務める一方、漫才師としてだけでなく、多方面で活躍している。漫才協会では史上最年少で理事に、2015年には副会長、2023年に会長に就任した。マセキ芸能社に所属し、兄に芸人のはなわがいる。
ナイツとしては、2003年に漫才新人大賞をはじめ、お笑いホープ大賞やNHK新人演芸大賞などを受賞。M-1グランプリでは決勝に複数回進出し、2008年3位、2009年4位、2010年6位に入る健闘を見せたが、2015年の敗者復活戦で3位となった。だが、THE MANZAIでは準優勝を果たし、文化庁芸術祭優秀賞も受賞している。
ナイツとしての地位はお笑い界で揺るぎなく、浅草芸能大賞受賞や「スターの手形」での表彰を含め、多大な貢献を認められている。塙は漫才協会での役職やM-1グランプリの審査員を務める様々など、日本のエンターテインメント業界で重要な役割を担い、その影響力は非常に大きい。

漫才ブーム

その他漫才に関する大事な流れとして追加していきたい。
1966年、横山やすし・西川きよしはコンビを結成し、その後の演芸ブームをけん引する存在となった。1960年代から1980年代にかけてテレビ番組の司会などでも幅広く活躍した。1980年の漫才ブームでは東西のリーダー格として頂点にあった。

1978年、ツービートと紳助・竜介がNHK主催の「NHK漫才コンクール」および「NHK上方漫才コンテスト」で優秀成績者として出会い、東西の若手漫才師として注目された。

1980年代初頭、漫才ブームが到来し、B&Bやツービート、紳助・竜介がその中心となって国民的な人気を獲得した。漫才がテレビの主要ジャンルとして確立し、漫才師たちがアイドル並みの扱いを受けるようになった。
ドラマや歌謡界に比べて、いくぶん低く評価されてきた"笑い"というもののステータスが上がったと言われる。

1982年、漫才ブームが下火になると同時に、吉本興業は若手芸人養成所「NSC」を開講し、新しい世代のお笑い芸人を育てる基盤を作った。NSCは漫才ブームがきっかけとなって設立され、漫才の新しいスタイルを確立することに寄与した。

この時期に影響を受けたダウンタウンの松本人志は、漫才ブームを「リバイバルのカルチャーショック」と評し、後のお笑いに対する発想の変化とジャンルの多様化を先導した。

漫才ブームの中心人物となった芸人たちは、漫才だけに留まらずコントなどにも進出し、お笑いの幅を広げていった。

M-1グランプリ

M-1グランプリは吉本興業と朝日放送テレビが主催する日本の若手漫才師を決める大会だ。2001年から始まり、2010年にいったん終了したが、2015年に復活し、毎年12月に開催されている。

島田紳助と谷良一が企画し、結成から10年以内の若手を対象としてスタート。審査基準は「とにかく面白い漫才」で、出場資格は「結成から10年以内」という条件から始まった。2015年の復活後は、資格が結成から15年以内に広がった。

通常は2人組が多いが、コンビ以外でも出場可能。ステージや演出は格闘技の試合を参考にしており、名前も「K-1」が由来。番組は赤やオレンジを基調にした派手なステージで、煽りや演出も派手だ。

優勝賞金1000万円、決勝は全国ネットのゴールデンタイムで生放送され、全国から参加を募る。吉本興業の主催ではあるが、他事務所の芸人の参加も認められている。注目度が増し、優勝後は多くのメディアから出演依頼が来るようになっている。優勝しなくてもブレイクするコンビも多いのが特徴だ。

審査員は過去には歴代王者や少数精鋭の構成である。漫才協会会長塙宣之も含まれる。第13回からは笑神籤(えみくじ)でネタ披露順を決め、ランダムな順番で漫才が披露されるようになった。

霜降り明星の最年少優勝や、ミルクボーイの記録的な得点など、歴史に残る出来事も起こりがちだ。YouTubeでの配信も行われており、マヂカルラブリーが優勝した際には、その漫才のスタイルを巡って「漫才論争」が起こったほど。朝日放送テレビの社長はM-1が国民的行事としての地位を確立し、様々な議論を呼んでいると評価。審査員の松本人志は「漫才の定義は基本的にない」としつつ、漫才の新たな可能性に言及している。

こうして日本の漫才の地位は確立された。

コントの歴史について

対比としてコントの歴史を記載してみたい。
コントの歴史は日本の演芸、お笑いの中で重要な位置を占め、多くのコメディアンや喜劇人たちによって形作られてきた。

浅草オペラとエノケン・ロッパ

最初にコントの礎を築いたのは、大正時代に活躍した高木徳子だ。1916年、彼女はアメリカ流のボードビルを浅草で上演し、これが浅草オペラの始まりとなった。高木はその後も新劇団「歌舞劇協会」を立ち上げてヒット作を連発し、浅草オペラを一世風靡させるきっかけを作った。

一方で、榎本健一は1904年生まれ、1922年に浅草オペラで『カルメン』に出演し、一躍スターダムにのし上がる。榎本は関東大震災後、京都で喜劇的な寸劇を演じるなどして名を馳せ、1929年には「カジノ・フォーリー」を立ち上げる。これが後の「エノケン一座」へと発展し、彼の舞台上でのアドリブや演技力は観客を魅了し続けた。

古川ロッパは1903年生まれ、1925年に早稲田大学を中退後、文筆活動に専念。雑誌編集や余興芸を手掛け、1930年代には「エノケン・ロッパ」として人気を二分する。1933年には劇団「笑の王国」を旗揚げし、アチャラカ喜劇と呼ばれる新しいスタイルのコントで成功を収めた。
この時代、ロッパは菊田一夫と出会い、ヒット作を創出。1936年には菊田を迎え入れ、ロッパ一座の黄金期を築く。彼らのコントは西洋風のモダンさと音楽を取り入れたもので、常に新鮮な驚きを提供した。

映画分野でも榎本は『エノケンの青春酔虎伝』で成功を収め、歌手としても多くのヒットを生み出す。第二次世界大戦後も彼は舞台での活躍を続け、1954年には日本喜劇人協会を結成した。

このように時系列で追っていくと、コントという形式が日本のお笑い文化の中でいかに成長し、根付いていったかがわかる。高木徳子から始まり、榎本健一、古川ロッパと続く喜劇人の系譜は、現代のコメディアンにも大きな影響を与えている。

浅草フランス座の時代

浅草フランス座は、ストリップ劇場の幕間に行われる軽演劇が大きな魅力の一つだった。ここで芸を磨いた多くのコメディアンたちが後に日本のテレビコメディを牽引することになる。浅草で無名だった彼らは、日々の舞台で即興のセンスを磨き、後の芸能活動の礎を築いていったのである。

渥美清は1928年に東京で生まれ、1946年に演劇の世界に足を踏み入れる。1951年、浅草の百万弗劇場で専属コメディアンとなり、1953年には浅草フランス座に移籍してコントの才能を開花させた。渥美の芸風はアドリブに長け、台本が間に合わない際もその機転で観客を魅了した。テレビ界への引き抜きが盛んな時代に、彼もまたその波に乗り、多くのコメディスターと共にテレビへと進出する。1954年の肺結核による闘病は、彼の芸に深みを加える。健康を取り戻した後、テレビや映画での活躍を続け、『夢であいましょう』出演で人気を不動のものにした。そして、『男はつらいよ』シリーズの寅さん役で国民的人気を獲得し、渥美清はそのまま喜劇界のトップスターとして輝き続けた。

東八郎は浅草生まれのエンターテイナーで、中学卒業後に演芸の道を歩むことになる。浅草フランス座で修行を積み、関敬六や渥美清らと共に舞台で磨きをかけた。東洋劇場では池信一や石田映二と共に活躍し、テレビの黎明期にはトリオ・スカイラインで名を馳せる。1971年にはグループを解散し、単独での活躍へと移行し、『お笑いオンステージ』で全国に名前を轟かせる。東八郎は後進の育成にも尽力し、劇団を率いて日本全国で笑いを提供した。『バカ殿様』やCMでの活躍、さらに歌手としても成功を収める。1986年には新人育成の「笑塾」を立ち上げるが、1988年に病気で急逝。生涯を通じて、浅草で培ったコメディアンとしての魂を芸能界に残し続けた。

伊東四朗は1937年に生まれ、就職活動中に演劇の世界に引き込まれた。新宿フランス座に通い詰めた結果、1958年に石井均一座に誘われて役者の道を歩み始める。初めは伊藤証と名乗ったが、すぐに伊東四朗に改名。浅草や新宿で石井一座として舞台経験を積み、その中で「てんぷくトリオ」の前身となる三波戸塚伊東トリオが形成された。三波伸介の一時的な失踪により伊東がスポットライトを浴びる機会を得て、結果的にてんぷくトリオが1962年に正式デビュー。伊東はこのグループの若手として、コントや演劇で才能を発揮し始めた。その後も「てんぷく笑劇場」などで活躍を続けたが、戸塚睦夫の死後は三波と共に「てんぷく集団」として活動し、徐々に個々の活動に移行していった。

萩本欽一は、昭和16年生まれのコメディアンで、60年代後半からテレビ界で活躍し始めた。昭和の黄金期には、相方坂上二郎と「コント55号」を結成し、一世を風靡した。1970年代には司会者としても名を馳せ、80年代には自身の名前を冠した番組で高視聴率を叩き出し、「視聴率100%男」と称された。浅草の東洋劇場で修行し、池信一や石田英二に師事、極貧の生活から這い上がった。浅草フランス座でストリップの幕間コントに出る中、安藤ロール(坂上二郎)と出会い、初めは抵抗を感じつつも後にパートナーとなった。浅草新喜劇での苦境を乗り越え、テレビ進出後は新しい笑いの形式を生み出し、多くの後進に影響を与えた。また、自身の番組では素人参加型のスタイルを確立し、現代のバラエティ番組に大きな足跡を残した。芸能界での長いキャリアを通じて、才能ある後輩たちを数多く輩出している。

井上ひさしは仙台の高校から苦労して上智大学に進み、経済的な理由で学業を中断し、職を転々とした後、学生生活を再開。この時、浅草フランス座でコントの台本を書き始め、彼の創作の才能が開花する。大学卒業後、放送作家としてのキャリアをスタートさせ、『ひょっこりひょうたん島』の脚本などで名声を獲得し、政治的な問題に直面しながらもコメディーで才能を示す。
1972年の直木賞受賞を機に、劇団こまつ座を設立するなど、文学界での地位を確立。苦悩を抱えながらも、作家としては社会的影響力を持ち続けた。晩年は教育者としても活動し、文化学院での特別講師を務めた。

深見千三郎は北海道出身で、若くして浅草で座長となり、その地で芸人としての礎を築いた。彼の芸風はオシャレで独自の美意識に溢れ、弟子にも厳しい指導をしており、浅草フランス座の名物となった。コントの世界では、彼が作り上げたキャラクターやスタイルが受け継がれた。深見は笑い以外での拍手を好まず、芸に対して純粋な情熱を持っていた。
ビートたけしは、彼の「最後の弟子」として知られ、深見はたけしを息子のように可愛がり、芸人としての心意気を教え込んだ。たけしはその指導を生かし、自らの芸風として昇華させた。フランス座の屋根裏で修行を積み、深見の毒舌やアドリブなどの技術を学んだ。
たけしはコントを志していたが、漫才に転じることを決意。これにより深見は一時激怒し、破門さえ言い渡す。しかし、その後内心では弟子の成功を喜んでいた。たけしの日本放送演芸大賞受賞時には、賞金を深見に渡すなど、二人の関係は親子のように密であった。
深見の訃報を聞いたたけしは無言でタップを踏み、師匠への深い敬愛を示したという。
たけしは名声では師を超えたが、芸人としての深見の偉大さは超えられなかったと後に語るのであった。

これらの芸人たちがフランス座という激動のステージで鍛えられたことは、日本のコメディ文化の発展において非常に重要であった。彼らは浅草の地での厳しいが豊かな経験を通じて、観客を魅了する術を学び、その才能を後のテレビや映画で花開かせた。また、彼らが舞台裏で交わした人間模様や生活の営みも、ネタ作りに影響を与え、幅広い層に受け入れられるユーモアを磨いた。フランス座が舞台芸術のみならず、コントというエンターテインメント形式を育むインキュベーターであったことは、これらの芸人たちのキャリアを通じて明らかである。そして、その精神は今も浅草の風景の中に息づいている。

テレビコントの時代とキングオブコント

そしてコントもテレビへと移っていく。
テレビコントの歴史を時系列で見ていくと、初期は歌手やアイドルがコントに挑戦することが多かった。1960年代は『シャボン玉ホリデー』でクレージーキャッツやザ・ピーナッツが、そして『8時だョ!全員集合』でザ・ドリフターズが活躍。当時の番組は音楽番組とコントが密接に結びついており、歌唱コーナーを設けたり、音楽番組内でコントが行われたりしていた。

1980年代に入ると、漫才ブーム後のビートたけし、明石家さんま、島田紳助などを中心とする『オレたちひょうきん族』のアドリブコントが人気となる。タケちゃんマンなどがヒットした。

1980年代後半から1990年代には『とんねるずのみなさんのおかげです』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」ではパロディコントが人気を博し、社会現象にもなった。

『ダウンタウンのごっつええ感じ』では今までにない斬新なイマジネーションのコントが、後のお笑い番組やコントそのものの作り、そして芸人界全体に大きな影響を与えた。

1996年には『SMAP×SMAP』が始まり、SMAPがコントを披露。1998年からは『笑う犬』シリーズでは連続ストーリー形式のコントが特徴となり、ウッチャンナンチャンを中心とするコントが復活した。
『めちゃ×2イケてるッ!』2000年代の『はねるのトびら』『ワンナイ』のような番組にそれぞれテレビコントの伝統は引き継がれていく。

しかし2000年代に入ると、『M-1グランプリ』の登場により漫才が台頭し、コント番組の人気は下降。一方で、2005年にはお笑いブームの影響でコント番組が一時復活するものの、その後トーク中心のバラエティ番組が人気を集めるようになり、コント番組は再び減少の傾向を見せた。

2006年以降は地上波のゴールデン・プライムタイムでコント番組が少なくなったが、2008年から『キングオブコント』が始まり、コントを専門とする若手芸人が台頭してきた。東京03などのコント職人に注目が集まるようになる。

2012年には『LIFE』がはじまり、久々のテレビコントの復活となった。
2019年からは視聴率のカウントが個人視聴率やコア視聴率へと変遷したことから若者向けの番組が増え、民放でもコント番組が増え始めた。
2021年には『新しいカギ』のように若者向けのコントを含む番組がレギュラー化する例も出てきている。

近年ではキングオブコントの影響でコントのみの単独ツアー舞台が再び注目を集めている。東京03やシソンヌのようなコント師が全国ツアーなどの舞台だけで稼ぐという状況も生まれてきた。過去テレビにはあまり出ず、舞台のみで活躍したラーメンズ以来の状況である。舞台での成功を目指す若手芸人も増加してきた。

テレビコントとは、テレビ番組内で行われる短編の喜劇演劇のことで、登場するキャラクターが織りなすユーモアある場面や対話が特徴だ。時には一つのストーリーを軸に連続性を持たせることもある。多くの場合、社会風刺や時事ネタを取り入れつつ、時代ごとの流行や視聴者の心情に合わせて、さまざまな形で笑いを提供してきたのだ。

海外をルーツとし、浅草から始まったコント。
浅草のコントというDNAはテレビと舞台、そしてニューメディアの中で揉まれ成熟し今後も輝き続けるだろう。
昨今のキングオブコントのレベルの高さをエノケン・ロッパはなんというだろうか。

終わりに

ということで、六区・東洋館の歴史、漫才と漫才協会の歴史、コントの歴史を述べてきた。
長々と書いてしまい本当に申し訳ありませんでした。もしここまで読んでいただいた方がいたら感謝申し上げます。
本当は東京のコントや漫才を多角的にみるんだったらラママやリーダーの存在が欠かせないのですが、趣旨がずれてしまうのでカットしました。
また漫才協会の会長以外の方の言及はできなかったです。すみません。。。で、締めです。

浅草の地は、かつて芸人たちの魂が火花を散らし、生き生きとした芸の世界を紡いできた場所だ。東洋興業の下、浅草フランス座で研鑽を積み、彼らは笑いの極みを追求し続けた。それぞれがテレビでの躍動へと翼を広げる前の、青春の輝きを浴びせた舞台。漫才とコントの歴史はここから流れ出し、漫才協会という大河に合流し、豊かな文化として育まれてきた。

今、その芸人魂は東洋館に息づき、漫才協会と共に新たな時代を築いている。昔ながらの笑いの核が、今も変わらず人々を惹きつけ、新しい才能に火をつけ続けている。この不屈の精神は、東洋館が色物専門の劇場として、また漫才協会が日々の公演を通じて、絶えず新たな漫才の波を生み出し、伝統を育んでいる現実に表れている。

芸の道は決して容易なものではない。しかし、浅草の歴史の中で培われた芸人たちの不断の努力、情熱、そして困難に立ち向かう勇気が、東洋館と漫才協会を通じて未来に引き継がれていく。この流れは止まることなく、時代が変わろうとも、芸人たちの心に刻まれた炎は消えることなく、新たな笑いを世に送り出し続ける。漫才の灯は今も、そしてこれからも、絶えず輝き続けるだろう。

ここまで長々と読んでいただいた方、本当にありがとうございました。

以上

※誤り等たくさんあると思いますのでご指摘いただければ嬉しいです。修正します。

出典
・Wikipedia
・松倉久幸「浅草で、渥美清、由利徹、三波伸介、伊東四朗、東八郎、萩本欽一、ビートたけし…が歌った、踊った、泣いた、笑われた。」
・松倉久幸「起きたことは笑うしかない!」
・ビートたけし「浅草キッド」
・一般社団法人漫才協会「ザ・漫才協会ファンブック」
・神保喜利彦「東京漫才師体系」
・竹内功「吉本興業史」
・渡辺正行「関東芸人のリーダー お笑いスター131人を見てきた男」
・おぼん・こぼん「東京漫才」
・ナイツ 塙宣之「言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか」
・かもめんたる 岩崎う大「偽りなきコントの世界」
・ラリー遠田「お笑い世代論」

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