平な言葉
私たちは日常的に、さまざまなものに対して評価をしています。
他者の行動、作品、発言、自分自身にまで評価をします。ただこの評価って本当に必要なのだろうかと考えることがあります。
表裏一体
評価には常に賛否がつきまといます。特に、意見が分かれる話題においては、「それはいいね」「それはダメだね」といった批評が飛び交い、炎上することも少なくありません。
誰もが自分なりの「物差し」を持っているからこそ評価が存在します。その物差しは、経験、価値観、教育、周囲の影響など、多くの要因で形成されます。
そして、それぞれが持つ物差しに基づいて、他人や物事を推し量り、評価するのです。ただ、その物差しが本当に正しいのか、私たちが求めるものなのかは、誰もが自問自答する必要があるのかもしれない。
みんな違ってみんなゴミ?
「みんな違ってみんな良い」と言われるように、人の価値観はそれぞれ異なります。
私たちは自分の基準で他者や作品を評価しますが、それが「良い」か「悪い」かという判断基準は、本当に必要なのでしょうか。
3月のライオンで、こんなセリフがあります。
ある人にとっては素晴らしいと感じるものでも、別の人には無価値に映ることがあるように、評価には常に相対性がつきまといます。
そして、それがもたらすのは「みんな違ってみんな良い」どころか、時には「みんな違ってみんなゴミ」とすら感じることもあるのです。みな平等に”ゴミ”だと考えるモノもあると思う。それはゴミに対しての物差しが同じともいえるのかも。
と同時に、”ゴミ”だな〜とたらしめる最低限の視点もあるんじゃないだろうかと。
何かといらないものばかりがあるのに、気づけば全部を肯定してしまっている。
多様性って曖昧だと思う。
ゴミとはなにか
評価の「不完全さ」
どれだけ客観的に評価しようと心がけても、評価はあくまで「自分」というフィルターを通したものであり、完璧な基準にはなり得ません。この「不完全さ」を意識することで、他者への寛容さや自分の物差しを見直すきっかけになります。
多様な視点の大切さ
賛否が分かれるものほど、多くの視点が存在している証拠です。評価を超えて、異なる視点や価値観を認識することが重要であり、それが豊かな考え方や理解へとつながります。
理解と共感のギャップ
理解はできても、共感には至らないことがあります。それでも異なる価値観を持つことは自然なことだと認識し、その上で自分の物差しに固執しすぎないことが、評価を超えた「受容」の一歩となるのかもしれません。
このように評価について再考することで、日々の批評的な見方や物差しに対して、新しい視点を持つことができるかもしれません。評価の有無を超えて、自分と異なる価値観を受け入れる姿勢が、大切なものだと感じます。